高校 政経・倫政の補習講座

大学入試に向けた知識、学んだことと生活を結びつける知恵を提供します。

第3章 合格したら


がんばった結果
 めでたく君は大学に合格しました。今までの高校生活をがんばった成果であり、面接や小論文対策を通じて、自らを振り返り、表現できるようになった結果です。
 もう一般選抜に向けて、教科の受験勉強はしなくてもいいかもしれません。あの受験勉強という奴は、苦手教科を中心に「何でこんなことしなきゃいけないの?」、「数学が存在しない世界へ行きたい」と思ってしまうような虚しい面があります。その虚しさや、「自分の行き場はないんじゃないか」、「滑り止めの私立に落ちてしまったら、どうすれば良いんだろう」という不安から、合格した君は解放されます。
 合格発表される頃、学校の授業は受験に向けての仕上げの時期でしょう。模試であなたはある教科で自分で満足できる点数の80%をとった。一般選抜に向けて受験勉強しているクラスメートも同じように満足できる点数の80%だったとして、その時感じる不安やプレッシャー全く異なります。君にとっては大したことはない出来事でも、クラスメート達にとっては、せっぱつまった、焦る出来事です。同じ出来事でも、臨む姿勢や置かれている状況で、受け取り方が異なるのです。

 ここからは早めに合格したからこそ、失われてしまうかもしれないことを伝えます。早めの合格によって、せっかくの3年間が変な結末を迎えてしまう生徒さんが何名かいるからです。あなたも落ちていたら一般選抜に向けて取り組んでいただろうから想像はつくと思いますが、念のために確認していきます。 

 早めに受かったからこそ、損をする可能性がある面が3つくらいあります。
 一つは、その「落ちたら行き場がない」という不安を経験していないことです。周りと比較して劣等感を感じたり世の中から取り残され、自分が必要とされていない感覚。落ちた人や、一般選抜に専念している生徒は、不安を覚える自分と毎日闘っています。だからこそ、現役かはわからないとしても、合格発表の日は泣いて喜ぶことができます。そして、そうやって闘いを超えてきたことで自分に自信を持つこともできます。その経験を君はしていない。
 世の中には高校受験の時には前期選抜、大学受験の時も総合型選抜や学校推薦型選抜という人が存在します。ずーっと推薦。受験者数よりも、定員の方が多い時代にあっては珍しいことではありません。私自身がひがんでいる可能性もあるかもしれないのでそこは差し引いて考えて欲しいのですが、そういう人がいざ「実力」でしか勝負できない場面になった時、例えばビジネスでの大事な取引や入札、国家試験や採用試験などを前にした時、どんな勝負をするのか、心配が残ります。劣等感や先の見えない不安と半年以上、毎日戦ってきた人と、身についている実力や自信に差がないかどうかです。

 2つめ。大学入学後は「君は総合型選抜(や学校推薦型選抜)で受かった〇〇さんだね」ということが付いて回ります。直接言われないでしょうし、すべての担当の先生そう見られている訳ではありませんが、そう感じながらの生活となります。
 体育系の大学や学部で、高校時代の競技成績や実技試験で合格し入学した場合は、その大学の体育会系運動部に所属することになるでしょう。その運動部を途中で辞めることになった場合、事実上は大学も辞めなくてはならない例があると聞きます。ひどい仕打ちとも思えるでしょうが、一方で入試の時には「大学でも競技を続けていきたい」と面接したりして、他を押しのけて合格した訳ですから、当然という主張も理解できなくはないのです。ここではその是非には深入りしませんし、他の学部・学科はここまでは極端ではないでしょうが、一般選抜ではない方法で合格したことは付いて回ります。
 面接や志願理由書で「入学後の計画」をどう表現してきたでしょうか。その通りの大学生活ができなければ、君は嘘つきということになってしまいます。「受かっちゃったら関係ないもんねー」と開き直ることは可能ですが、嘘はいけないということではなく、「いい子のふりして生きなさい」という意味でもなく、合格発表の日までは、あんなに本気でちゃんとやりたいと思っていた自分を裏切ってしまうことが問題なのです。
 だから、受かった今だからこそ、受験学力もつけながら、入学後の計画や設計をしたそのことを逆算して、今できることを進めていって欲しいのです。受験対策でクセをつけてきた「考える」ことも継続して欲しいのです。総合型選抜で受からなかった生徒と同じように学習を続けなければ、多数派、一般選抜組と同等の学力を持てないままの入学になるかもしれません。よくある例は合格後、定期テストや模試の点数がズルズルと点数が下がっていく例、ひどい例では模試で受験する科目を減らしていって、なおかつ点数も下がっていく例があります。それらは受験学力へ向かう必死さが違うのでやむを得ない面があるとしても、大学から入学前に課されているレポートをテキトーに仕上げたり、スマホをいじる時間が増えるだけだったら、自分を傷つけていきます。ですから面接で主張した計画や設計を進めていきましょう。


まだ受かっていない生徒との関係
 3つ目、前期で受かっていない君の親友や同級生との関係が難しくなるひとがいます。君はもちろん実力で受かりました。一般選抜向けの受験学力ではありませんが、ある種の「実力」であることは確かです。しかし、その実力を出し切ったと思ったのに、落ちた子もいます。未だ受かっていない彼らは不安な闘いを続けているわけだから、君のちょっとした振る舞いで風当たりが強くなるのは避けられません。
 次の文章は、高校の前期選抜に落ちた中3生の『生活記録』です。

「今日は、前期の結果がでました。予想していたので私は自分の結果ではあまりショックを受けませんでした。けれど○○が受かったようで、心から祝福したいと思いながら、どこか複雑な気持ちがわいてきた自分にすごく怒りを感じました。私はどこかで○○をライバル視していたのかもしれません。ここは想定していた最悪と違う気持ちなので、そんな自分が本当に嫌になりました。」

 彼女は素直に振り返り、自分の感情を表現できるから、こう書くことができました。まだ受かっていない彼女たちは、受験への不安、受かった生徒へのうらやましさ、受かった生徒に意地悪な感情を持つ自分への嫌気、と二重、三重の感情を抱えています。中学生ですらそういう感情を持つのです。
 合格した君は、もっと大変で、大切なこと、人間関係を引き受けなくてはなりません。高校を卒業したら顔を合わせなくてもいい、関係なくなる人がいるかもしれません。しかし、今そばにいるその人たちを大切にしない人が、君が向かおうとしている次のステージにいる人を大切にできるのでしょうか。大学入学後の友人だけではありません。インフラが整っていないアフリカの村人に対してなら、スラムでゴミ拾いをしている子どもたちに対してなら、ここではないどこか別のところにいる人なら大切にできるのでしょうか。
 「こうすればいいよ」なんて簡単には言えません。昔の人は「汝が欲することを人にほどこせ」、「己の欲せざるところを人にほどこすなかれ」そんなふうに言い伝えてきましたが、君がどんな顔で毎日過ごしたらいいのかは教えてくれません。
 先輩の例を二つ。ある先輩は国立の自己推薦で早めに合格したので、学校に黙って自動車免許を取りに行っていました。教員のいない昼休みに「昨日の教習で坂道発進できなくてさあ」と嬉しそうに騒いでいたそうです。もしかしたら周囲が受験に向かって頑張っていていることへの、寂しさからの表現だったのかもしれません。しかし、周りはどう感じたのか、何となく想像がつきます。
 別の先輩は、合格した後も図書館で自分が進む分野を静かに探究していましたし、放課後補習も欠かさず参加し、真剣に取り組んでいました。考査も模試も下がりませんでした。すべての時間で自分が出来ることのベストを尽くそうとしていました。周りの生徒は彼女が合格しているなんて気づかなかっただろうと思います。
 どちらの先輩が、別の小さな場面でも、まだ受かっていない生徒を支えてきたのかは予想がつくでしょうし、どちらの先輩が周囲から信頼されているのか、これから迎えるそれぞれのステージで必要とされ、活躍していくのかも予想がつきます。
 合格発表の日から卒業式や一般選抜組の合格発表の日まで時間があります。この時間は、あんなに信頼し合ってきた仲が、君が早めに受かったばっかりに、それが引き裂かれてしまうかもしれない大切な時間であることは忘れないでほしいと思います。

(9)個人面接と集団面接

 面接は、大きく分けて個人面接と集団面接の2通りあります。比較してやりやすいのは個人面接、難しいのは集団面接やグループ討論の方です。
 個人面接から見ていきましょう。ここでもはじめに受験生の間違いやすい考え方、発想を指摘しておきます。
 それは、面接官はあなたに矢を射かけてくる敵ではないということです。
 質問という厳しい矢を放たれるので、盾で防御しようという発想は誤りです。そういう発想だとあなたの回答は硬く、面接官にとって興味を抱きにくい内容や印象になってしまいます。
 面接官の先生方は慣れているので、あなたが言い直ししたり、噛んだりは全然気にしない。けれど、総合型選抜とはあなたの方が自主的に受験しに来て、伝えたいことがあるのであって、面接官は評価する側であることは間違いありません。そうだとしても、敵ではありません。
 面接官側も「この受験生といずれ同じ研究室で一緒に時間を過ごすとすれば、どうかな」という視点を持っています。理想的には、面接の途中からは和やかなムードで、互いに自然な笑顔が出るような面接にしたいのです。「面接しているというよりは途中から会話しているみたいでした」という受験報告で落ちた生徒を知りません。
 が、なかなかそうはいかないでしょう。意図的に和やかな会話をつくりだすのは大人でも難しいことですし、笑顔が合格の鍵でもありません。ただ少なくとも、亀が甲羅の中に入って身を守るような姿勢ではなく、開かれた、会話をキャッチボールをするようなオープンな姿勢では臨んでほしいと思います。


 次は集団面接です。
 集団面接やグループディスカッションにおいて、まず気をつけたいのは、自分の言いたいことを一方的に主張し、言いっぱなしの表現をすることです。あなたの得意なテーマで討論することになり、正解に近いことを知っていたとしても、前の発言者が誤りに近いことを主張していたとしても、得意げに誤りを指摘し、一方的に「正解」を主張することは、プラスの評価になりません。集団なので他の受験生を蹴落とそうとして変に張りきってしまう発想は誤っています。

 逆にまったく発言しないというわけにもいきません。入試ですから。
 大学が集団面接という形態をわざわざ用いているのは、受験生が他者の発言をどのように聞いているのか「聞く態度」を見ているから、と考えたほうがいいでしょう。
 世の中に出て問題を解決する際には、多くの場合はチームプロジェクトや組織として解を出していくこともあり、大学もコミュニケーション能力を見ています。実際に多くの大学のアドミッションポリシーには「コミュニケーションリテラシー」が含まれます。

スライド32信大人文AP

 大学側の評価基準を見てみましょう。
 次の表は、2つの大学のグループディスカッションにおける評価基準です。評価基準のことをルーブリックといい、大学は面接室や面接官によって評価にズレがないように基準をつくっています。あくまでHPで見ることができる、一部の大学の例ですが、面接官が受験生の何を見ているのか参考になります。

スライド31ルーブリック

 「自分が優れた主張をすれば高得点」という評価ではないのがわかります。他者の意見を理解することが大切ですし、意見を述べている時には、視線を合わせたり、相づちを打ったりという動きも必要です。下を向いて黙ってただ聞いているのはよくありません。
 対応として、自分が発言する際に、次の例のような前置きを入れてみることを勧めます。
 「前におっしゃった方と似ていますが…」、
 「今までお二人の意見を聞いて思ったのですが…」
 「前の方は〇〇を念頭においてそう主張したのだと思いますが、✖✖に視点を移すと逆に…」、
 「今までの議論から、争点は〇〇ということになると思いますが、私も✖✖を懸念しますので…」
など、他者の発言を受けていることを示す前置きです。

 学校の「探究」や「課題研究」の授業で、班別にテーマを決める学校があると思います。個人別で探究するより難しいものです。テーマ、調査の方法、まとめ方、発表の仕方などなど、「何を、どのように、どうするか」問いをメンバーと話して決めていかなくてはなりませんから。自分だけの方が好きなことを早く進められる気がします。しかし、そのメンバーで「問い」を話して決めていく「遅さ」が「探究」や「課題研究」で付ける力なのです。繰り返しますが、実社会で問題の多くは、「問いを立てる力」に関連しています。例えば、

    ・この発電施設は、あらゆる災害に耐えるのか、欠陥があり得るとすれば何なのか。

    ・なぜ、自信を持って販売したこの商品は売れないのか、どうすれば売れるのか。

    ・ ある近隣の国Nと接していくのに望ましい外交とは何か、何をどうすべきなのか。

 これらの問いを立てた上で法的、経済的、社会的等の制度や条件を知り、チームや合議で解決、クリアしていく必要があります。実社会で「問いを立てる力」が求められているのがわかります。正解ではなくて、納得解。
 「探究」や「課題研究」は、これから求められる力の養成の場であり、面接の練習でもあるのです。


 次に集団面接が難しいのは、マイペースでいられないことです。自分の前に発言した人が、自分と同じ主張をしてしまった場合、逆に前の人が自分と反対の主張をして、反論を含めて主張しなくてはならない場合など、パッとすぐに応えるのは難しいものです。英語のディベートに慣れているような人は有利かもしれませんが、多くの受験生にとって簡単ではないでしょう。
 難関の国立O女子大学のAO入試に合格した先輩がいました。倍率はだいたい13倍。その大学は集団面接の他に、360分間でのレポート作成、20分の個人面接も課されます。その入試の集団面接20分間のうち、彼女が発言できたのは3回程度、「他の受験生のアピールがすごくて、気後れした」と振り返っています。大学側が受験生の何を見ていたのかは明らかにされませんが、集団面接において彼女は周囲の主張を落ち着いて理解した上で、的を射た自分の考えを、少ない回数ながら述べたことが予想されます。そういえば彼女は授業中もよくうなずいたり、わからないところは首をかしげたりしていました。強くアピールすることだけが合格に近づくわけではないことがわかります。
 集団面接は対策が難しいでしょう。大学や学部、学科が違えば問われるテーマや出題傾向が異なるので、自分の高校で面接の練習をするために人を集めるのが簡単ではありませんから。自分一人の力では無理、先生に頼っても同じ出題傾向でかつ「自分の面接内容を知られてもいい」と同意してくれる他の生徒を集めるのは、簡単ではありません。多くの受験生は、個人面接的な練習はできても、集団面接についてはぶっつけ本番になると覚悟して臨んだ方がいいでしょう。ですから、なおさら「探求」やLHR、通常の授業で周囲と討論するような場面があったらそれを生かしたいのです。誰かが意見をのべている時の聞く姿勢、周囲の意見を受けて自分がどう表現できるか、集団面接の練習だと思って取り組んで欲しいと思います。繰り返しになりますが、それは入試のためでもありますが、その後も求められている力です。
 こうして見てくると、普段の授業は大切、チャンスにあふれています。


今回は、「期待に応えることができない苦しみ」について見ていきます。
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 親を中心に身近な人から期待され、プレッシャーがかかる苦しみがあります。
 どのくらいハードルが高いでしょうか。
 「東大理Ⅲに必ず合格しなさい」とまでは言われないでしょうが、国公立とかブロック大とかGMARCHとか大学名で言われることもあるでしょうし、将来を考えて職業に直結する工学部とか薬学科、教育学部など学部や学科で言われることもあるでしょう。

 私も人の親ですので、親の期待は無責任な面があることも指摘しておきます。
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 こうして、いろいろあっても何とか無事に子ども期を抜け出し、勉強がある程度できて、高校へ入学しました。すると欲深いものでどこの大学だ、学科だと期待しているわけです。十数年前は健康でありさえすればいいと考えていたのに。
 親によって少し違いはあるでしょうが、誤解してほしくないのは、決して世間体を気にしてプレッシャーをかけているのではありません。「〇〇くんよりいい大学」とか「✖✖さんより難易度の高い学科」にあなたが入学することで、親自身の評判を上げようとか、家庭教育の正しさを証明しようとかそんなふうには考えていないものです。
 多数の親が考えているのは簡単、あなたに「強くなってほしい」ということ。
 世の中に出ればたくさんの困難が待っていて、それに耐えうる力を受験を通じてつけていってほしいと願っているのです。

 先日転勤したある先生が、本校にいる最中だけで2度本気で辞めようと思ったと話をされました。私の場合は本校ではありませんが、ある学校では月曜日や長期休業明けに「学校行きたくない」と思ったことが何度でもあります。狭い高校教員の世界でもそうですから、多くの職業や職場でそれぞれの困難があるのは間違いないでしょう。そして、それらの困難は逃げたくなる時もあるのですが、それを避けずに向き合うことで新しい自分というか、それまでの自分になかったものが引き出されることがあります。上のステージに進めると言えばいいでしょうか、少し強くなることができました。

 親はそれぞれ世の中を経験しています。大学や学部についても自分の仕事をしながら考えたこともあるでしょう。困難があってもあなた自身の足で強く生きてほしい、そうやって世の中で困らないように生きてほしいと願い、期待をかけるのです。

 ましてやもしかすると、親にとっては期待をかけることができる最後の時期かもしれません。期待通りに自分で判断する力がつけば、もう多くの助言は不要になるでしょうし、これで進学してしまえば、帰省以外では二度と家に戻らない人もいます。あなたに語りかけられるチャンスは少なくなっていきますので、言いたいことや期待はこれから強くなっていきます。赤の他人にアドバイスする時と違って、感情が入りますから、表現も強くなります。
 「〇〇くんはA大学を目指して、平日5時間勉強しているのにあんたは何よ」
 「✖✖さんはB学科に入るために、家ではスマホを使っていないらしいのにお前は何よ」
と他人との比較も含めて言ってしまうのは、あなたに〇〇くんや✖✖さんに勝ってほしいという意味ではなく、あなたも強くなってほしいという意味に、感情が入ってしまうためにキツい表現になる例です。

 とはいえ、もしかするとそういう親の気持ちはとっくにわかっている、という人もいるでしょう。時折キツかったり、傷ついちゃうようなことを言うけど、それは心配していたり、エールを送っているからなのであって、端的に言えば、愛されていることを重々承知しているという場合。愛されることはツラい、重たいし。その愛情がプレッシャー、自分も期待に応えたいんだけど叶わないかもしれない、これからお金の面でも心配かけたり、受験勉強のために夜食をつくってもらったり、TVのボリュームを小さくしてくれたりと、いろいろ負担をかけるのが申し訳ないという苦しみ。
 あなたが申し訳なく思うことはないんです。多くの親は全然負担だと思っていません。そんなふうに周囲が見えるようになったのなら大人に近づいている証拠ですし、浪人したとしてもまた1年張り合いが増えるようなものです。世間体を気にしているとか、「恩返ししてね」と取り引きをしているわけでもありませんし、感謝してほしいわけでもありません。
 TVの渋谷のスクランブル交差点の映像、知らない誰かが歩いていますが、私たちはその知らない誰かに何かを期待したりしません。赤の他人には期待しないし、面と向かって怒ったりしない。期待と、かけがえのなさや愛情はつながっています。あなたに期待している人の願いは、繰り返しますが、自分が進みたい道へ向かって歩んでいくために強くなってくれればいい。大学に合格するためではなくて、その後の人生を生きるため。

 願いがあるとすれば、あなたがいつか子どもを持った時、私たちと同じようにでなくていい「愛されることもツラいなあ」と思わせるようにあなたが考える愛を注いで、育ててほしい。そうしてもらえればsustainable、何か私たち親自身が生まれてきた意味があるというものです。

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