高校 政経・倫政の補習講座

大学入試に向けた知識、学んだことと生活を結びつける知恵を提供します。

 親からこんなふうに言われるのは嫌なものです。

  「〇〇くんはA大学を目指して、平日5時間勉強しているのにあんたは何よ」
  「✖✖さんはB学科に入るために、家ではスマホを使っていないらしいのにお前は何よ」

 他人との比較。反発したくなるでしょう。「親からの期待」のプレッシャーについては別のところで述べますが、この反発、「私はなぜこういうふうに言われることが嫌なんだろう」を考えてみると、苦しみの原型が見えてきます。
 親が嫌がらせで言っているのではないことは十分にわかっている、期待されているから言われているのもわかっている。にもかかわらず自分は、受験勉強に集中し切れていない。いろいろ理由をつけて忙しがって、スマホばかりいじっている。
 他人と比較されることが嫌な理由は、自分でも確かにそう思う、他人ほどがんばれない自分が突きつけられるからなのです。よって、「他人との比較されることによる苦しみ」は、もっと深刻な苦しみの中に含まれています。それは次から見ていく「努力しても結果が出ない苦しみ」や「受験勉強に意味を見出せない苦しみ」など、自分というものに直面しなくてはならない苦しみです。
 併願する私大を含めて受験する学校、学部、学科が別の生徒さんとまったく同じ、受験科目も同じ、というケースは多くないでしょうが、仮に信大工学部機械システム工学科を受験して、〇〇くんは合格して、私は落ちた、しかも〇〇くんに対して学校の成績や模試の判定では私の方がよかったのに‥という場合であっても、それは悔しいでしょうが「〇〇くんはがんばったんだな」と納得できます。
 よって、こういう他人と比較して苦しみをあげている先輩たちはほとんどいません。


 定期テストの前に友達同士でよく見られる会話です。
 「昨日のTVで〇〇見た?面白くって見ちゃったよね」
 「昨日、✖✖しちゃって全然勉強してない」
 学校では昔から見られる光景です。テスト返却で出来なかった時の他人に対する言い訳という面もありますし、テストの出来がよければ、あまり努力していないのにできる才能やポテンシャルのある人と他人に思わせる効果があります。他人からの評価に対してリスクを回避していて上手、というか私たち教員から見れば微笑ましい。
 しかしよく見ると、他人からの評価というより、自分自身に対しても巧妙な戦略です。自分に対して、出来なかったら「しょうがない」、出来たら「もともとの才能、力がある」と確認できる。自信を喪失することはないのです。
  こういう光景があちこちで見られるってことは、逆に言えば、努力しても出来ないのは、自信を喪失させます。
 部活動を引退して、本格的に受験勉強を始めてしばらくたった頃、勉強を妨げるものは無く、量的にも十分取り組んでいるはずなのに、結果が出てこない。努力しなかったことで結果が出ないのは構わない、けど今度は努力しているも関わらず結果が出ない。これが苦しいのです。

 ちなみに、部活動を引退して、文化祭終了後、1,2ヶ月で結果が出ることは稀です。早くても3ヶ月、6ヶ月以上かかる場合もあります。イメージで恐縮ですが、レンガがひとつひとつ積み上がっていくように伸びるのではなくて、努力し続けていると、ある時期錆びついていたドアがギギーッと開く感じに似ています。もう少し学術的な裏付けがあればいいのですが、人がわかるとか出来るようになる過程は、y=axのような右肩上がりの直線ではなくて、ある時期から急激に上昇するy=ax2の曲線に似ている感じです。ですから努力を続けてほしいと思います。
 もちろん、努力の質というものはあるでしょう。書店に行くとTVに出ているクイズ王たちの著作がベストセラーになっていて効率的な受験勉強の方法、ノウハウを伝授しています。参考になる点はたくさんあり、昔の根性で受験していた頃と違います。ただ、その方法が万人にとって普遍的なものなのか、あなたに合うのか、あなたにとってよい方法なのかは約束されていません。

 努力しているのに結果が出せない自分。これでいいと思ってきたやり方、方法が間違っているのか?ではどう変更すればいい?新しい方法なら確実なのか?時間が迫ってきた‥
 今まで高校に入学するまでは、自分の受験上の力に劣等感を持つ場面はあまり多くなかったでしょう。努力さえすれば何事でも為すことが出来るし、叶う。けれど、今回は何か違う感じ。人生に対してすらそう考えてきたことが崩れる感覚さえします。 
 中学の同級生で、あなたのようには受験勉強が得意でなかった友人たちを思い出して下さい。それらの生徒さんの中にはあなたより努力していた人はいなかったでしょうか。あなたはその生徒さんより努力してきていないのに、高校受験では結果を出した。
 仮に、そんな友人が真顔であなたにこう相談してきました。「俺って、おまえより努力しても出来ないんだ。どうすればいい?」、あなたならどう語りかけますか。その語りかける言葉が自分自身に必要な言葉なのかもしれません。

 努力しても叶わないことがあるのかどうかは、考えるに値します。
 「努力すれば、叶わないことがない」とすれば、それに向かう意志や努力の質や量の問題です。
 「努力しても、叶わないことがある」とすれば、これからの意志や努力に影響を与えます。報われないこと、諦めなくてはならないことがあるということは、未来に対する見方へも影を落とします。Mrs.Green Appleさんの「僕のこと」はそんな苦しみが描かれています。
 四季が巡ってくることは変えられない、人間の死は避けられない、自然界にはいくつも人間の努力では叶わないことがあります。人間がつくりだした人為の出来事はどうでしょうか。叶わないものがあるのかどうか。「すべての人類に栄養がいきわたり飢餓人口がゼロになること」や「温暖化がストップすること」、「この世の中から戦争や内戦がなくなること」はどうでしょうか。
 話を広げすぎました。私たち個人のレベルでもどんなにがんばってもできないことはあるのか。もし努力しても叶わないことがあるとすれば、どのような種類の出来事で、どんな条件を備えているのか。
 下のように、自分は万能ではなく、努力しても叶わないことがあることを学校で教えるべきだという主張があります。ただ、ここでは手に負えません。
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 あなたがすさまじい努力をしても結果が出ない苦しみ、自分の将来や人生観に関わって、相当苦しいはずです。
 ただわかってほしいのは、毎年、先輩たちもこの苦しみとつきあって、進路を決めていることです。結果が出ない時期があっても、粘り強く取り組むことでのちに結果が出た場合が本当に多い。口々に「あの苦しい時に諦めなくてよかった」と言っていますし、仮に本番で結果が出なくても、何らかの選択や折り合いをつけて進んでいきました。

 そういえばこんな先輩たちがいます。宇宙飛行士、700万人を動員するヒット作をつくった映画監督、高校生なら誰もが使っているSNSのCEO。彼らが高校生の時に「おれ、宇宙飛行士になりたい」と言ったら、それちょっと難しいかも、無理なんじゃないの?と言いたくなる方が自然です。でも叶えた先輩たちがいる。同じ釜の飯というか、窓から同じような景色を見ながら毎日を過ごしていた先輩がいたということは、忘れないでほしいと思います。
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 こんなに努力しているのに結果が出ないことは、多くの人が直面する苦しみです。人は努力しているかぎり、こうやって苦しむのかもしれません。
 


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 受験の時期にはどのような苦しみがあるのでしょう。

 受験を経験した先輩たちが、卒業に際して後輩たちに向けてメッセージを残しています。それらを参考にすれば、これから直面する苦しみや悩みが予想できるのです。
 あらかじめどんな心境になるのかを知っておけば、いざそうなった時に「おお、先輩が言っていたのはこういうことか」「聞いたことある苦しみ、来た来た」と備えておくことができます。少し紹介します。
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 「苦しい」という言葉に注目するとあちこちに見られます。そんなに苦しいのか、身構えてしまいます。どのような苦しみがあるのでしょうか。

 まず、「合格するかわからない苦しみ」があります。
 第1希望に合格すれば理想的ですが、第2、第3希望…それより上手くいかずに、本当は行きたくない許容範囲の学校ですら、合格するかわからない不安があります。
 ただ、この苦しみについては避けられません。むしろ苦しむ必要があると言えるかもしれません。なぜなら、逆に考えてみましょう。もし必ず受かるとわかっている入試だとしたら‥結果がわかっている入試だとしたなら‥受かった時の喜びはありません。
 大会やコンクール、資格試験と一緒で、結果がわからないからドキドキするし、クリアすれば嬉しい。結果が約束されているなら緊張も不安もないでしょう。
 現在、全国に大学が約770校、短大が320校、専門学校が2800校あります(2019年度時点)。定員割れしている大学も毎年200校前後ありますし、そのうち3分の1は定員充足率50%未満ですので、選り好みしなければ、少子化する日本、医学部医学科以外は必ず受かるところはあります。でも、必ず受かる学校しか受験しない人は稀です。なぜなのでしょう。

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 別のところでも述べましたが、就活の際や仕事の場面で大学で学んだことが直接いかせる職場は限られています。歯学科や薬学科などマストの学部・学科がいくつかありますが、それ以外はあまり関係ありませんし、世の中で活躍している人はどこの大学を出ているかの必然性はありません。にもかかわらず、受験生は自分の受験学力がギリギリ届くか届かないかの学校を志望していきます。
 なぜなのでしょうか。
 この問い、「なぜ受験生は、選ばなければ入学できる学校があるにも関わらず、ギリギリの学校を目指すのか」を考えていくと、皆さんの苦しみの原因もだいたい見えます。

 少しでも偏差値やランキングが高い大学に入学した方が就活の際に有利なのでしょうか。この就活については最近読んだ本に詳しく出ています。大学の難易度と社会に出たときの相関は、ある企業に入社しさえすれば「入社後の配属先には影響を与えるが昇進や昇給への影響は限定的」(小熊英二 『日本社会のしくみ』 講談社現代新書 2019年)のようです。しかし現実には人気校と不人気校が存在します。世界的な不況やウィルスの蔓延など大きな出来事があった時に大企業の方が安心、一方でその企業の採用基準は必ずしも透明ではありませんので難易度が高い人気校に入学すれば近道、と考えるのは無理もありません。正確な事実なのか、過去の伝説が混じっているのかは断言できませんが、そう考える気持ちは理解できます。

 入試は限られたイスの数を争うイス取りゲームにたとえられることがあります。
とすると、同じ年に受験するクラスメートや浪人生は蹴落とさなくてはならない敵ということになります。定員が限られていますから、そういう面があるのは否定できません。けれど、目指している学部や学科は様々ですし、繰り返しになりますが、地方私大を中心に200校前後の大学が定員割れしています。どちらかというと、イス取りゲームというよりは走り高跳びに似ています。本番で自己ベストが跳べれば嬉しいですし、当然跳べると思っていた高さを失敗すればショックでしょう。誰もがインターハイ記録226㎝を目指しているわけではありません。自分が跳べるか跳べないか、それぞれのギリギリの高さを目指しています。受験科目は複数あるので、陸上の10種競技とか近代7種にたとえたほうが適切かもしれません。科目を減らすと絞った科目でより尖らないと総合力で損する点も似ています。受験の試験中、他人に邪魔されることはないわけですから、限られた試技回数の中で自分の力を表現する競技の方が近いといえます。蹴落とす必要はないのです。

 倫理の教科書に出てくる仏陀、ゴーダマ・シッダルタは、人生のすべては苦しみに他ならないのが真理、一切皆苦と呼びました。その上で人生で避けることができない苦しみの種類を主に8つあげています。四苦八苦です。

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 では四苦八苦する原因は何か。仏陀があげているのは欲望への「執着」です。執着がなければ苦しむことはない。欲望への執着をなくせば涅槃の安らかな境地へたどりつける、と説いていきます。
 受験に合格したい、という思いは執着に違いありません。「合格すれば〇〇できる」の〇〇の中に入る言葉は、遊べる、就職を優位にできる、勉強から解放される、好きな勉強を思う存分できる、安定した人生の入口に立てる、親を安心させられる、自慢できる、等々いろいろあるでしょうが、間違いなく欲望への執着です。ただこれは受験に限ったことではありません。人間生活や人類の歴史もまた欲望や執着があって許せないことや悲しいことが起きていますが、一方で欲望が進歩を促したり喜びを生んでいます。この執着を捨てることは中々できない。悟ることは難しい。ゴーダマだって悟るまでに6年間くらいかかっていますから。
 受験生の多くがギリギリ受かるかどうかの学校を目指すのも、仏陀から見れば何らかの執着に関係していますが、少なくとも、あなたが合格しても誰かを傷つけたり、困らせているわけではありません。あなたが定員分の1を占めたことで、その1人分、誰かが定員には入れないことは事実ですが、それは受験上の実力です。
 「合格するかわからない苦しみ」は受験の醍醐味です。喜びと裏表です。結果がどうなるかばかり気にしていても合格は近づいてきませんし、誰よりも強く祈っている人が合格する訳でもありません。目の前にある課題、受験勉強そのものに取り組むしかない。
 よってこの苦しみにはきちんと向き合ってほしいですし、仮に向き合いきれずにこのまま行きたくない学校へ進むのが嫌なら、もう一度やり直す、浪人すればいい。
 「合格するかわからない苦しみ」に近いものとして、数学ができない苦しみ、現代文の小説が解けない苦しみなど、教科上の出来、不出来によるものがあるでしょう。それについては教科担任の先生に聞いて下さい。そもそも苦手科目に時間を費やしているでしょうか。苦しみに入れません。
 今回、皆さんに伝えたいのは、いま見てきた「合格するかわからない苦しみ」以外の、次のような苦しみについてです。

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 これで受験上の苦しみのすべてを網羅しているとは思っていませんが、上の3つのような苦しみに嘆いている姿を見かけます。他の苦しみもあるかもしれません。苦しみのスペシャリストは前述したゴーダマ・シッダルタです。彼は苦しみを追求して、王子の地位や家族を捨てて出家してしまったくらいですから。もっとたくさんの苦しみを知りたい人は、弟子たちが仏陀の言葉をまとめた最古の聖典、スッタニパータ(中村 元 『ブッダの言葉』 岩波文庫 1984年)を読んでみて下さい。
 それぞれ順番に見ていきますが、①努力しても結果が出ない苦しみ、②期待に応えることができない苦しみ、③の人生に意味を見出せない苦しみ、③は時間がもったいないので、そういう苦しみを抱えている必要な人だけが見るようにしましょう。

人生に意味を見出せない苦しみ
戦い続けることへの苦しみ

 少し重たい苦しみを感じる場合もあります。この苦しみは全員が感じるのではないでしょうが、できれば避けたい苦しみです。
 それは受験勉強に取り組みながら、こんなふうな毎日を過ごすことにむなしさを感じる場合です。苦手な教科がある人は「アーもう嫌だ、数学のない世界に行きたい」とか時々感じるでしょう。それは当たり前。これから触れる苦しみはそれとは違います。
 受験そのものやこうして受験勉強して出た結果に対しても、またその先の就活や仕事をしていく人生そのものに「こんなふうに生きていかないといけないんだ」、「これからもずっとこういう努力や競争していかないといけないのか」、「仮にうまくいったとしても、その先にどれほどの意味があるのか」と思うような苦しみです。意味を感じることができない苦しみ、戦い続けることへの苦しみと言い換えてもいいかもしれません。

 このような苦しみを感じていないあなたは、これ以上読み進める必要ありません。
 読んでしまったばっかりにすべてに意欲が持てなくなることもありうるからです。見なくてすむなら見ないほうがいいパンドラの箱、こういう苦しみを感じていない人は、受験勉強に戻りましょう。

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