高校 政経・倫政の補習講座

大学入試に向けた知識、学んだことと生活を結びつける知恵を提供します。

2020年04月

 今回は、実存主義を見ます。
 実存主義はキルケゴール、ニーチェ、ヤスパース、ハイデガー、サルトルらが代表的な人物ですが、2回に分けて見ていきます。今回はキルケゴールとニーチェです。 
 実存の意味がわかりにくいでしょう。人間の客観的な把握や社会体制の変革ではなく、自分にとっての真実を求めたのが実存主義です。現実存在の略、‘現実’的に生きる私という‘存在’にとっての真理を求めようとしています。
 これまではヘーゲルに象徴されるように「人間とは○○である」とか「社会は○○である」と説明してきて、それはそれで社会制度を考えていく時には、一般的な人間を想定しなければ制度設計ができませんから役に立つのですが、それら人間や社会の「本質」は違和感があっても人を黙らせてしまう効果があったり、私にあてはまるとは限りません。実存主義者の一人、サルトルは「実存は本質に先立つ」という言葉で「○○である」という本質ばかり追い求めてきた哲学に反省を迫ります。例えば世界の人口が79億人いて、仮に今日2万人がフラれていたとして、私がフラれたツラさは「恋愛というものは、成就するとは限らない」と人間や社会について説明されても、私のツラさが2万分の1に軽減されたりはしません。むしろback numberさんの「ハッピーエンド」を聴いた方がよくわかります。実存主義はそうやって自分にとっての真理に答えようとするので、高校生にとっては惹かれたり、取っつきやすいようです。余談ですが、世の曲で何か琴線に触れるものは、おのずと実存主義にはいりこんでいる気がします。というか歌詞を書こうと思ったら「実存主義へGo!」という感じです。
 キルケゴールはこんなふうに言います。
私にとって真理であるような真理、私がそれのために生き、そして死にたいと思うような理念を発見することが必要なのだ。いわゆる客観的真理などを探し出してみたところで、それが私の何の役に立つのだろう。

 この単元も〈人・キーワード・内容〉を区別することが、引き続きカギになります。この単元は、最初から問題を解くのではなくて、ある程度それぞれの人物のアウトラインを理解してから問題を解いた方がわかりやすいです。
 キルケゴールのキーワードは、「主体的真理」や「絶望」、「実存の三段階」や「単独者」、「あれか、これか」になります。
 キルケゴールを大雑把にみます。彼は人類や社会、世界にとってではなく、私にとっての真理、「主体的真理」を見出そうとしました。現実の生活ではいたるところで選択する場面があります。その時、社会や世間の理性的な見解が「その選択でよいのか」と迫ってきます。一方で自分は人間一般には還元できない唯一無二の「例外者」であり、また感情や肉体を持っていますから、世間の理性とはズレが生じます。「その選択でよいのか」という不安や苦悩、さらには生きることへの「絶望」におちいる場合もあります。
 ではどうしたらいいか。キルケゴールは自分らしく生きるために、実存には段階、「実存の三段階」があることを示しました。出題を解く上では、美的実存、倫理的実存、宗教的実存はそれぞれ内容の違いを理解する必要があります。恐らく受験生にとって違和感があるのは、三段階の最終段階が宗教的実存であることでしょう。「結局、神にすがることかよ」という違和感です。神と言うと紛らわしいので、何かすべてを包みこんでいて絶対に正しいというようなものを仮に想定してみて下さい。その「絶対」と自分自身が「単独者」として対面すること、と考えるとスムーズです。「絶対」は「単独者」である自分に何と語りかけるだろうか。今の自分はこれでいいのだろうかと考えていくことが「宗教的実存」です。「単独者」として神と向き合うことなので、キルケゴールは周りと同調して教会に行くような信仰は嫌います。このような「単独者」として絶対と向き合うことなく、自分自身を見失った状態が、少し前に述べた「絶望」のことなのです。
 こうやって見てくると、「その選択でよいのか」、「例外者」や「単独者」という考え方は受験生にも身近なものだということがわかります。キルケゴールは不安や「絶望」を通してはじめて、真実の自己、実存に向かうことができるとも言います。何だか勇気づけられます。
人間を真に知った人は次のようにいわねばならないだろう。すこしも絶望していない人間、その内面に深く何らかの動揺とか不調和とか、ある知らないものとか、あるいはあえて知ろうとすらしないあるものとかに対する不安、といったものを宿していない人間はひとりもいないと。

 続けてニーチェです。
 ニーチェのキーワードは「ニヒリズム」、「ルサンチマン」や「奴隷道徳」、「神は死んだ」、「力への意志」、「超人」、「永劫回帰」、「運命愛」などです。
 再び大雑把にみましょう。ニーチェは、生きる意義や目的を失った虚無主義=「ニヒリズム」に陥っていると考えました。原因はキリスト教です。イエスやキリスト教の教えは、弱い者が強い者をうらやみ、優遇を求めてつくりあげた怨恨=「ルサンチマン」であり、「奴隷道徳」だというのです。それによって本来の気高く、創造性に満ちた人間の「力への意志」を失わせた、と考えます。
 私たちは日常、「人にしてもらいたいことを人にしなさい」という黄金律とまではいかなくても、困っている人の力になりたいとか、誰もが平等に扱われるべきだとか、何となく当たり前のように前提としている善さのようなものがありますが、そこをニーチェは揺るがします。
平等の説教者よ。わたしにとって、おまえたちは毒蜘蛛であり、復讐の思いを抱いて身をかくしている者たちだ。
善い者たち、正しい者たちを警戒せよ。かれらは、自分自身の徳を創り出す者を、好んで十字架にかける。彼らは孤独者を憎むのだ。

 どうすればいいのか。ニーチェは、既成の道徳や価値が失われたこと、「神は死んだ」という事実を認め、新しい価値を創造し生き生きと生きること=「超人」になることを主張します。その「超人」とは、目的がなくグルグルと円環のように繰り返される「永劫回帰」の世界にあっても、「これが人生か、さればもう一度」、よっしゃー来いや、と引き受けられるような存在です。言い換えます。小学校の頃を思い出せば「超人」はわかります。無邪気に世界を肯定し、無心に遊ぶ「子ども」こそ「超人」だとニーチェは位置づけています。ウルトラマンultraman(≒超人) ごっこをしていなくても、子どもは超人に近いのです。
わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきものである。あなたがたは,人間を乗り超えるために,何をしたか。
君は一つの新しい力であるか。新しい権利であるか。始原の運動であるか。自分の力で回る車輪であるか。君たちは星たちにも支配の力をおよぼして君の周囲を回らせることができるか。
 キルケゴールは神を尊重した上での実存主義でした。ニーチェは「神は死んだ」と神なき世界での実存主義でした。次の単元とあわせて、キルケゴールとヤスパースは有神論的実存主義、ニーチェやハイデカー、サルトルは無神論的実存主義に分類されます。キルケゴールやヤスパースが神を想定するところに違和感があっても、恐らく高校生には魅力的な人たちです。問題を通じて、恐らくお気に入りの実存主義者も見つかることでしょう。
 ただ、受験上は不要かもしれませんが、それぞれ弱点というか、課題もまた持っています。お気に入りがいてもいいし、勇気づけられる言葉もたくさんにあるのですが、独りよがりにならないように、実存主義者を相対的に見る視点も持っていた方がいいと思います。
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 今回は、マルクス以降の社会主義を見ます。
 19世紀初頭の初期社会主義を経て、マルクスが自称「科学的」に資本主義社会の矛盾を指摘します。
 マルクスは資本主義のしくみやその下での人間の疎外を明確に説明しました。出題は生産や労働、労働者の疎外をどうとらえたのかを問う場合が多いといえます。たとえばヘーゲルは「世界を動かすのは絶対精神」と納得しづらいようなことを述べましたが、マルクスはヘーゲルから世界や歴史が運動や変化がある点についてはヘーゲルを受け継ぎながら、世界を動かすのは「生産関係や生産力などの下部構造」だととらえます。
 またそれまでのA・スミス流の自由競争は「見えざる手」によって調和するはずの経済でしたが、個々人の努力差以上に格差が開くことや、恐慌については説明することができませんでした。しかしマルクスはそれらを現在でも説得力のある説明をしました。余談ですが、現在でも大学に行けばマルクス経済学は生きていますので、経済学部に進めばマルクスも学ぶことになります。
 ところが社会主義には課題があります。少し横道にズレますが、旧ソ連や中国、そして国内でも社会主義・共産主義的な考え方を持っている人は、往々にして不寛容というか上意下達というか、自分たちこそが正しく、それ以外の考え方を見下す「正しさの強制」が著しいという特徴があります。そういう事実が目立つだけなのか、それともマルクス自身の考え方からの必然なのかは私には手に負えませんが、歴史や現在起きていることからはそのような特徴が示されるのです。
 19世紀後半からの修正マルクス主義、社会民主主義のウェッブ夫妻、バーナード・ショウ、ベルンシュタインも出題されます。これらは社会主義が陥ってしまった課題や特徴を克服しようという試みです。初期社会主義者から結構な人数を区別する必要がありますね。区別できるでしょうか、それぞれのキーワードが出てくるか念のために人を挙げてみましょう。オーウェン、サン=シモン、フーリエ、マルクス、エンゲルス、レーニン、バーナード=ショウ、ウェッブ夫妻、ベルンシュタイン。

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 今回は、19世紀の実証主義や進化論、初期社会主義を見ます。
 18世紀のニュートンたちによって自然科学は発展し、さらに1859年に発表されたダーウィンの進化論は、社会のとらえ方へも影響を与えます。自然科学が自然を法則の下にとらえたように、社会もまた法則の下にとらえようとするのが実証主義です。余談ですが、大学の学部の分類として、大きく3つ、人文(科学)、社会科学、自然科学の3つに分ける分け方がありますが、そのうちの社会科学が生まれたのが、この時期です。
 コントは、人間は精神の発達段階と共に社会にもまた発達段階があるととらえました。ダーウィンは適者生存、自然淘汰の考え方をもたらし、スペンサーはそれを人間社会にも適用し「社会進化論」を唱えました。細かく言えばダーウィンよりスペンサーの方が先に進化論を唱えていて、スペンサーの強調点は社会は有機体のようなものなので、国家は個人への干渉を避けるべきこと、社会は軍事型社会から産業型社会へ進化していくことを述べました。
 続けて初期社会主義です。ヘーゲルやベンサムたちが個人と社会の関係を考察してきた動機は、顕在化する貧困や格差などの社会問題にありました。初期社会主義者、オーウェン、サン=シモン、フーリエらも理想の共同体を考えます。3人の違いは細かく感じますが、区別が必須です。そういえばオーウェンは自ら成功した経営者でしたが、労働時間の短縮や労働者の子ども達のために初めて幼稚園を創設した人物です。別の単元でみるマルクスらには「空想的社会主義者」と称されてしまいますが、成功者が理想の社会のために工夫しようとした気持ちには、何かホッとするところがあります。
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 今回はプラグマティズムを見ます。
 アメリカでは独特の真理観が育ちます。大ざっぱに言えば、役に立つから真理、使えるから真理というプラグマティズムです。ギリシャ語で「行為」を意味するプラグマ pragmaが語源です。荒野を開拓してきたアメリカ人にとって、デカルトやカントの認識論は論理的ではあっても、実生活には役立たなかった、考えるとスムーズです。
 パース、ジェームズ、デューイの3人が登場しますが、それぞれ少しずつ違います。それぞれのキーワードをあげます。パースは「プラグマティズムの創始者」のような枕詞が付くことが多いですが、キーワードはありません。科学的なの真理が実験を通じて明らかになるように、観念の意味は実際の行動の結果によって明らかになる、という考えをはじめました(デカルトら大陸合理論の言う直観を否定したのです)。ジェームズは「有用主義」、著作『プラグマティズム』、デューイは「道具主義」、「問題解決」や「経験主義教育」「創造的知性」あたりとなります。
 受験生にとって区別しづらいのは、ジェームズの「実用主義」デューイの「道具主義」です。ジェームズはパースのプラグマティズムを広く解釈して、こう言います。まあ広く解釈しすぎて、家族ぐるみのつきあいをしていたのに仲違いしてしまうのですが。
それは真理であるから有用であるともいえるし、有用であるから真理であるともいえる
 つまり、結果が役立つ限りにおいて、その考え方や観念は真理であるとしました。たとえば信仰をもつことについて憂鬱が解消されたり、安心したり、他者への愛が強まるから信仰は有用であり、真理であると言います。
 一方のデューイの「道具主義」です。ジェームズからだけでなくダーウィンの進化論からも影響を受けています。環境に適応した生物が生き残っていくように、人間も置かれた環境に適応する道具が必要ですが、道具のうち最も便利なものが知識です。その知識とは、ジェームズにとっては有用であれば真理ですが、それだとソフィストたちのように真理は“人それぞれ”になってしまいます。デューイにとって真理は“納得できる説明がなされたもの”(保証付きの言明可能性)で、環境に適応するために試行錯誤されながら、創造されていくものです(創造的知性、実験的知性)。ジェームズほど相対的ではありませんが、客観性や真理を絶対的なものとはみなしていません。 

 余談ですが、少し深入りします。プラトン以来、トマス・アクィナスやベーコン、デカルト、カントなど「普遍的な正しさを認識できるか」を問題してきた哲学の伝統からすれば、プラグマティズムはあっさりと難しい話は飛ばしてしまいます。そこがシンプルでもあり、逆に西洋哲学の伝統からは軽く扱われてしまうところもあるのです。ところが、よく見るとパースはカントの定言命法「~すべき」は、経験という過程を無視しているので、仮言命法「もし~ならば、~すべき」の方が適切と、新しい意味を加えていたり、ジェームズの実用主義も、理論より前の「生き生きとしたリアルな感じ方」を重視した点では、のちに見る西田幾多郎やベルグソンの考え方につながります。
 また、有用主義や道具主義は、原爆や無人攻撃機をどう考えるでしょうか。アメリカ人をむやみに戦闘にまきこまず被害を減らすことができるので有用、創造されその時の環境に適応した必要な道具、または開発・使用された結果が実用的だから、と考えられたとすれば、プラグマティズムはそのわかりやすさとは裏腹に、問題を抱えているでしょう。
 ちなみに日本の教育論はデューイの影響を強く受けています。問題解決学習や探究は、理論よりも「まずやってみる」「なすことによって学ぶ」ことやPDCAサイクルを求めています。教育系に進む人は自然にデューイの影響を受けていきますが、プラグマティズムに対する相対的な視点が持てると理想的です。
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 今回は功利主義を見ます。
 ヘーゲルと同じ頃、個人の幸福と社会全体の幸福の関係を考えたのが功利主義です。A・スミス、ベンサム、ミルの3人が中心です。それぞれのキーワードは、スミスが「見えざる手」や「共感」。ベンサムは「最大多数の最大幸福」、「快楽計算」、「制裁」とりわけ「法律的制裁」。ミルは「質的功利主義」、「満足な豚であるよりは不満足な人間の方がよい」、「内的制裁」、「他者危害(排除)の原則」あたりとなります。
 A・スミスは、個々人が自分の利益を追求すれば「見えざる手」によって、社会の利益と調和するという考え方を持っていました。実際の歴史では格差や植民地支配など弊害が19世紀に顕在化し、現在でも批判されます。ただ、その時期の重商主義というか、国王らと結びついた特権商人のみが経済活動できるというしくみを批判したことは確かですし、需要と供給というかスミス流の市場経済は世界に広がっています。
 ここではベンサムとミルの違いが最も大事ですが、A・スミスの「共感」、ベンサムの「制裁」、ミルの「内的制裁」など、彼らが自分の主張に条件をつけていたことも注目です。

 ミルは、ベンサムのいう快楽に、質の違いを加えます。単に多数の快楽をもたらすのが善なのではなく、質の高い快楽と質の低い快楽があると言います。確かにローマ帝国ではキリスト教徒がライオンに食われるのをたくさんの人々が快楽を持って観戦していましたから、快楽にも質の高い快楽と質の低い快楽があるという考え方は理解できます。その上でミルは、
満足な豚であるよりは不満足な人間の方がよく、満足した愚か者であるよりは不満足なソクラテスの方がよい
と獣ではなくて人間だけが経験できる快楽、精神的快楽を上位におきます。イエスの黄金律(the golden rule)「人にしてもらいたいことを人にしなさい」のように、他者の幸福を願うような精神的な快楽を求めました。
 少し俯瞰します。現代社会にもさまざまな快楽があります。ベンサムにとっては快楽が量的に増えることが社会的に求められてよいということになりますが、「世の中にある快楽は(他人に迷惑をかける快楽を除外したとしても)求められていいのか」という問いにミルは条件を付けました。ただ、ミルの言う快楽の質的な違い、質の高い楽と質の低い快楽を区別する基準は何か、仮に区別できたとしても、その質の高いと位置づけられた快楽を行うことは、もはや快楽ではなくて義務に近づいていないかという問題が生じてきます。ミル自身は、その基準は「両方を経験した人のすべてあるいはほとんどすべてが‥選び取るものが、望ましい快楽である」と言っていますが、どうでしょうか。具体的に試します。クラシック音楽を聴くことは、ミスチルさんや髭ダンさんを聴くことより質が高いでしょうか。両方経験したほとんどの人の選択が一致するでしょうか。そもそも音楽を聴くことは読書することや執筆することに比べて質が低いでしょうか。ミルの質的功利主義は「どうしたらいいのか」を求めようとすると、グレーゾーンが広く存在するのです。
 別の話に戻します。多数派は少数者へ向けて社会的な専制を行う危険性があることもミルは述べています。これも現代でも見られます。
 また、父親のように「お前にとってこうした方が幸福だからこうしなさい」というような父権主義、これをパターナリズムといいますが、パターナリズム批判もします。簡単に言えば「誰にも迷惑かけていないことなら、いいじゃん」という意味。たとえあることが本人にとって損するかもしれないことでも、他人の利益に影響を与えない場合には干渉されない、ということです。これを「他者危害の原則」といい、ミルは自由や自己決定を重視して、お節介や温情主義(パターナリズム)を嫌います。
 誰にも迷惑をかけていないのになぜ規制されなくてはならないのか、「他者危害の原則」は、尊厳死や輸血拒否、生殖補助医療などの生命倫理や、身なり(ヒゲやタトゥー)など現代の問題を考えるときに、一つの基準となります。極端な例かもしれませんが「誰にも迷惑をかけていないんだから、私の卵子と優秀でイケメンの人の精子をネットで購入して受精させ、赤ちゃんを産んでどうして悪いの?」どう反論しますか。
 ミルについての説明が長くなってしまいましたが、こうしてみても、19世紀にミルが述べたことは、多数者の専制、あちこちに見られるパターナリズムの問題など、現代にも通用する話をしていることがわかります。
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