高校 政経・倫政の補習講座

大学入試に向けた知識、学んだことと生活を結びつける知恵を提供します。

2020年10月

 ソシュールが示した構造主義以降、「世界は言葉で分節されている」、「世界は言葉でできている」という考え方が主流になります。いやそうは言っても例えば科学技術は依然として使われている、言葉でできている訳ではないように見えるのですが、科学の方法それ自体や、科学の位置づけの転換がはかられているのです。
 例えばクーンのキーワードは「パラダイム」や「科学革命」ですが、それまで科学とは実験やデータの積み重ねによってだんだん真実に近づくものだと考えられてきましたが、実際はデータを読み込む思考の枠組みが変換(パラダイム・チェンジ)されて、連続的にではなく断続的に変化します。ちょうど天動説で積み重ねられてきたデータが、地動説で考えた方がピッタリきたというように。ポパーの「反証可能性」、クワインの「ホーリズム」、クーンの考え方を区別しましょう。
 ウィトゲンシュタインも難解な哲学者の一人です。しかも前期と後期で考え方が変わります。前期の「写像理論」、「語り得ないことについては沈黙しなければならない」と、後期の「言語ゲーム」は異なっています。おおざっぱに言います。前期の「写像理論」は科学は現実と事象と対応しているので真か偽かが確定できるが、神や道徳は現実と事象と対応していないので、真か偽か確定できない。確定できない以上「語り得ないことについては沈黙しなければならない」と考えていました。
 後期になると、言葉とは使われる文脈で意味が変わる、同じカードなのに複数の意味で使えるトランプのようなもの、「言語ゲーム」だとしました。と同時に科学で使われる言葉もまた同じで、イデア界にあるような完全なものとは言えないのではないか、と考えるようになります。
 これらは、科学技術の実用性を前に沈黙を強いられていた人文系の人々が、科学者に対して主張ができる根拠になっています。
 下の(3)に出題されているアマルティア・センは政経でも出てきます。センのキーワードは「ケイパビリティ(潜在能力)」や「人間の安全保障」で、貧困や格差を防ぐ経済政策を立てようとします。本文を読み取る、読解の出題ですが、この本文によって彼の考え方がわかります。①~④の選択肢からだけでなく、本文まで読みこめると理解が深まる一例です。

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 今回は構造主義をみます。ソシュールやレヴィ・ストロース、フーコーやデリダなどです。このあたりはだいぶ現代に近づいていますので、現代文の評論文にも構造主義の考え方がいくつか載っています。そっちも理解できる、一石二鳥の単元です。
 大ざっぱに彼らの考え方を理解しましょう。ソシュールの結論は「言葉によって世界は成り立っている」、「言語や文化は差異の体系である」ということです。わかりづらいですね。ソシュール以前は、言語とは、ものが先にあって、それに名札をつけたようなものだと思われていましたが、ソシュールは言語として名付けられることによってあるものが存在するようになる、と考えました。日本語でワニは、英語ではクロコダイルとアリゲーターです。英語ではクロコダイルとアリゲーターは全く別のものですが、私たちの日本語はたいして変わらないものとして位置づけています。他の例をあげます。日本語で「ストレス」という言葉が定着していなかった頃、人々はストレスを感じてはいませんでした。疲れやだるさはありましたが、ストレスは疲れやだるさとはちょっと違うでしょう。ストレスという言葉ができることによって、私たちの身心はストレスを感じるようになるのです。言葉が先で、ものや事実は後。確かに私たちは言葉によって考えていますし、言葉になっていないものは見えないというか、気付かない。名付けるということは他と区別するため、差異のためですが、その差異は文化によって違う、構造があるので構造主義といいます。
 レヴィ・ストロースも西洋の理性を批判します。南米の諸部族の調査から、彼らにも西洋の理性同様、一定の論理性や記号体系があることを見出します。この記号体系はソシュールが言語のうちに見出した構造に通じます。構造主義です。遅れた未開に思われていた諸部族にも構造が見られるのであるから、西洋の理性だけが進んでいて正しいとは言えない。あらゆる文化の間には優劣はない、という文化相対主義にもつながっていきます。
 フーコーもまた理性が狂気や異常を創りだすことを指摘します。狂気や異常とは、学問や歴史認識などの理性が産んだもので、あらかじめ存在するわけではない、と言います。有名なのは囚人を監視するパノプティコンです。功利主義のベンサムが発明した監獄、パノプティコンは教科書や資料集に図が出ていますが、最小限の監視者で囚人を監視する効率的なしくみです。まさに「最大多数の最大幸福」が体現されています。フーコーは、このパノプティコンは監視者は実際にはその時に囚人を見ていなくても、囚人の側からすれば常に見られているように感じ、いつの間にか自ら従順な主体をつくりあげていくことを指摘します。このように近代の理性は、人間を社会に主体的に服従させるしくみがあちこちにあって、服従しないものを異常や狂気として排除します。これらのしくみをフーコーは「権力」とか「生の権力」と呼びますが、この権力とは国家権力のようなものばかりでなく、私たちの主体と切り離せないのです。
 一番身近なのは学校です。一度、教卓に立ってみて下さい。授業中なら教室の一番後ろの席の生徒が内職していることもハッキリわかります。これによって怒られることも権力の力でしょうが、それだけでなく「怒られるから従おう」、「あいつバカだな、バレてるって言ってんのに」とか、さらに「別に怒られるからやってるんじゃなくて、自分の進路を実現したいからやっている」という主体性の中に「権力」が入り込んでいるというのです。あなたの中の「権力」は見えますか。
 当たり前のように使う言葉や習慣、歴史観や学問が当然のことではなく、相対的、人が囚われていると考える、ソシュールの言葉、レヴィ・ストロースの文化や習慣、フーコーの歴史や学問への認識は、私たちの土台を突き崩し、クラクラさせます。自分なんてない、と思ってしまうかもしれません。けれどそういう考え方があることを知っておくことは視点を広げますし、知らなかった時より幸福になるかはわかりませんが、ステージが上がっていることは確かです。
 ヴィトゲンシュタインはちょっと取っつきづらい、初期の写像理論と後期の言語ゲームを分けて、その上で過去問で慣れていこう。下にも問題がありますが、次回、第37回でも、もう少し触れます。
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 今回の単元は、労働問題です。
 いずれ就活、就職した時に、働くことの歴史や法制を理解していることが強みになりますし、近いところではアルバイトした時に労働基準法を知っておくことは、直接役に立ちます。「お皿割っちゃったら、その分差し引かれた給料が支払われるのか」、「休憩時間はどのくらいか」、「大学はテスト期間なのに『あなたシフトの日でしょ?』と言われたら‥」などたくさんのヒントが定めてあります。
 この単元では、法律や制度が多く問われます。法制を軸にして、それとは別に羅列的でキツく感じられるのが、労働運動の歴史です。
 No55の(2)では問題そのものが、「失業者の定義」を説明しています。正解かどうかだけでなく、読み込んで下さい。主婦や主夫は失業者かとか、月にたった2時間でも仕事をすれば失業者に含まれないとかこの定義そのものの課題も見えてきます。
 現代の日本においては、国際競争や国際分業、人口減少などを横目に見ながら、この働くことの制度を今後どうしていくか、が未来へ向けて大切になります。よりより法制はどのようなものがありうるか想定していくと、結構量のある法制でも深く理解できます。
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 今回はベルクソンやガンディー、シュヴァイツァーらを見ます。
 この単元は生命を考える時のヒントを与えてくれます。現代社会は出生前診断や尊厳死、男女産み分けのようにQOL(生命の質)を重視する技術が広がりつつあります。確かにただ寿命だけが延びてもいきいきとした生が実現できなければ意味がない、生命の質(QOL)が大事だという主張はわかりやく、保健体育や家庭科の教科書でもQOLは重視されているでしょう。が、高い質を求めるということは低い質を想定していて、低い質の方は低く扱われて構わないという考え方とつながりがちです。今回の単元は、生命倫理を考える時に、「そもそも生命とはどのようなものなのか」を問い直すヒントになるのです。
 シュヴァイツァーの生命の畏敬、ガンディーのアヒンサー(不殺生)はある角度からQOLの考え方に疑問を投げかけます。ベルクソンも生命の計り知れなさを提起します。
 ベルクソンが難しいかもしれません。「生命の跳動(飛躍・エランヴィタール)」、「創造的進化」などをキーワードにしていますが、彼は生命の進化とは機械論や目的論ではとらえられず、予測不可能な爆発で、その爆発が可能なのは開かれた社会だと考えます。確かに魅力的です。
 ベルクソンの考え方は、日本へも急激な文明開化、欧化政策、近代化批判で大正生命主義(北村透谷や田山花袋、梶井基次郎ら)という潮流を生んでいきます。
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 今回は少しまとまりがないのですが、ロールズ、マザー・テレサ、レヴィナスを見ます。
 ロールズは現代において正義に関する理論を提唱した人物です。社会主義ではなく資本主義、自由主義の体制下で格差を是正するにはどうしたらいいのかを考えましたので、極めて現代的な意義があります。
 次から見る(2)の問題など過去問を見てみると、それぞれが正義や他者との関係に関してどう考えてきたのか整理されています。あなたはどの正義や他者関係が現代社会にふさわしいと思いますか。
 後半はマザー・テレサやレヴィナスです。マザー・テレサはカトリックの修道女としてインドへ派遣され、「死を待つ人の家」や「孤児の家」を開きます。キリスト教の隣人愛、イタリア語で慈悲を意味するピエタを実践した人物です。彼女は最大の不幸とは何かについて、こんなふうに言います。
この世の最大の不幸は、貧しさや病ではない。むしろそのことによって見捨てられ、誰からも自分が必要とされていないと感じることである。
 飢えは物質的なものだけではないこと、その飢えは現代にも、先進国にもあることを指摘しています。確かに田舎の暗い一本道を一人で歩いているよりも、渋谷のスクランブル交差点一人で歩いている方が孤独を感じる時があります。誰からも必要とされていないことは、自分が生まれ、生きている意味に関わります。
 レヴィナスは大戦中、親や兄弟をナチスに殺され、生き残ったのはほぼ自分だけという経験をしています。にも関わらず世界は平然と存在し続ける、その意味を考えました。彼のキーワードは「イリヤ」「他性」、「顔」です。「イリヤ」とは、かけがえのなさを失った、匿名の存在のことです。誰もが他の人とは同じであり得ない「他性」があるにもかかわらず、全体性の中に取り込まれてしまっている。「他者の他性に直面しないこと」とは、自我は結局は都合のいいものを集め秩序だてて、自分を揺るがす異質な他性を無視することです。ナチスの政策やナチスを支持する心情にそういう傾向があったのです。
 そんな「イリヤ」から抜け出すきっかけが「顔」です。「顔」は全体性を引き裂くことができるのです。例えば物乞いやホームレスの人と目を合わせて「顔」に出会えば、私は揺るがされます。何か手を差しのべたりしなくても、寄付した方がいいんだろうかと思ったり、何があってこうなったんだろうと考えたり、邪魔くさいから近寄ってこないで欲しいと考えたり、そう考えている自分を冷たいと思ったりと、その人の「顔」が私に影響を及ぼすのです。多くの場合、「顔」に出会うあることが怖かったり面倒なので気付かないフリをしてみたり、そもそも視界の外に置いたりします。「顔」は他者や他性の重みを知るきっかけをつくるのです。人を変えましょう。赤ちゃんから笑顔で見つめられれば、自然とこちらも笑顔になるでしょう。「顔」の力は大きいのです。
 これらの考え方も、現代社会において、人がどう扱われるべきか、「顔」と出会わない場面が増えていないか、示唆に富んでいます。
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