高校 政経・倫政の補習講座

大学入試に向けた知識、学んだことと生活を結びつける知恵を提供します。

2020年10月

 今回は、フランクフルト学派を中心に見ます。
 1930年代、ドイツのフランクフルト社会研究所にホルクハイマーやアドルノ、フロムやハーバーマスなどの思想家が集まっていました。彼らをフランクフルト学派と呼びます。
 ナチスドイツを経験して、理性のあり方や、理性そのものに対する反省が生まれます。ユダヤ人抹殺という目的を果たすために、理性は手段としてその力を存分に発揮しました。理性そのものが悪いのではないか。アーレント、ホルクハイマーとアドルノ(この2人はなかなか区別できない)らは、そんなふうに考えていきます。そういえば核兵器も生命倫理に関わる技術も、環境問題も理性が引き起こしています。
 ホルクハイマーとアドルノのキーワードは「道具的理性」と著書『啓蒙の弁証法』です。理性が目的を果たすための技術的な道具になっていることを批判します。かつて理性は自然の恐怖や不安から人間を解放してきました。人間の内側に向けても理性を働かせ、感情や衝動もコントロールする近代的な自我や主体性もつくってきました。しかしやがて、自分たちでつくったしくみ、理性で覆われた世界が「第二の自然」として、人間を支配し抑圧していること示しました。ベーコンの「知は力なり」は人間を解放しただけではなかったのです。
 フロムのキーワードは、著作名でもある『自由からの逃走』と「権威主義的パーソナリティ」。自由であることの重荷に耐えられず、自発的に依存や従属を人々が求めることを指摘しました。ヒトラーは独裁的な支配をしていきましたが、人々から求められ、合法的に権力を握ったこともまた確かです。現代でもいくつかの国において、人々の感情に訴えるポピュリストが支持を集めています。まるでサルトルの「自由の刑」には耐えられないかのようです。
 ハーバーマスのキーワードは「対話的理性」や「コミュニケーション的合理性」、「生活世界の植民地化」あたりです。また大ざっぱにいえば、合理性や効率性を求める「システム合理性」がひろがり、人々が支配される「生活世界の植民地化」と呼ぶ状況がおきている、よって互いに納得できるようなコミュニケーションや対話を回復する必要がある、と言います。
 横道にそれますが、少し深入りします。「コミュニケーションや対話をしましょう」という結論ではあるのですが、それだけなら中身がある話になりません。ハーバーマスは、他人を自分の目的を果たすための手段や道具としてしてしまうようなコミュニケーションや対話はおかしい、ゆがめられていると考えます。誰か似たようなことを言っていました。カントです。カントは、
汝の人格の中にもすべての人の人格の中にもある人間性を、汝がいつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ
と述べていました。少し回りくどいですね。他の人格を「目的として扱い、手段として用いない」と略せば言えますが、「いつも同時に」とか「決して単に」と加えています。私たちは例えばタクシーに乗るときに、タクシーの運転手さんを手段として扱っています。けれどカントが加えた「決して単に」が付いていることによって、運転手さんと会話したり、運転の迷惑にならないように配慮したりすることで「決して単に」手段としてのみには扱っていません。ハーバーマスでも同じです。私たちは合理的に、計算を含めた話をすることもあります。こんなことを言えば面接で受けがいいだろうとか、自分の思惑が果たせるだろうとか。愛の告白だってある意味そうでしょう。それらを全く取り去ったコミュニケーションや対話はなかなか難しいのです。学校では「対話的理性」は比較的たくさん見られます。しかし、社会人になると難しい、そこがハーバーマスの課題です。

 また、同じようにユダヤ家のドイツ人ですが、フランクフルト学派ではないハンナ・アーレントも出題されます。アーレントの労働、仕事、活動の3つは区別が必要です。単純な普通名詞ですので流してしまいがちですが、ナチズムを生んだ現代は労働は広がっていても、活動が失われていると考えます。少し深入りしますが、活動とは他者との対話によって自分を公の場にさらして、自分が変わる機会のことです。自分の中のもう一人の自分と対話する機会と言いかえてもいいでしょう。ちょうどソクラテスが対話によって真実を見つけようとしたことやハーバーマスの「対話的理性」に似ています。そういう機会が失われていること、そのような社会を「全体主義の起源」と位置づけています。自分を肯定してくれる世界に自閉していきがちな現代社会にあって、彼女の述べた「活動」はますます意味を持ってきています。
 また、気をつけてほしいのは、同じキーワードを複数の人物が使っている例です。「権威主義的パーソナリティ」はフロムのキーワードですが、アドルノの著作名でもあります。また「道具的理性」という言葉もホルクハイマーやアドルノだけでなくハーバーマスも使います。というかフランクフルト学派は使います。問題文に他の要素で誰なのか判断できるキーワードが入っているはずですので、早とちりしないように落ち着いて問題文を読みましょう。
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 今回は実存主義の2回目、主にヤスパース、ハイデガー、サルトルの3人が中心になります。
 合理主義や実証主義など科学的に真実を見出そうとする動きに対して、そのような客観ではなく、私にとっての、個別の人間にとっての真実、キルケゴールの言葉でいえば「主体的真理」を見出そうとするのが実存主義でした。
 それぞれキーワードがありますが、キーワードの概略をいったん理解した上で、その後に問題を解いていきましょう。出題は実存主義者を区別させることが多いので、正解や不正解から直接出題されている人以外の考え方がついでに理解できるからです。

 ヤスパースのキーワードは、「限界状況」、「包括者(超越者)」、「実存的交わり(愛しながらの闘い)」の主に3つ。キルケゴールと同じように神を否定しないところも特徴的です。 
 ハイデカーは「20世紀最大の哲学者」といわれ、その内容は難解です。キーワードは「ひと(世人、ダス・マン)」、「現存在」、「世界-内-存在」、「死へとかかわる存在」、「故郷の喪失」などで、表面的には難しくない感じがしますが、資料集に出てくる原典と照らし合わせると、表現が回りくどかったり、何を意味しているのかわかりにくいのです。厳格に表現していてその意味を解き明かして、生を明らかにしていくのが哲学かもしれませんし、大学で哲学科へ進めば、厳格な意味を理解することがひとつの目的となるでしょう。ただその難解さに今深入りしすぎても混乱するだけですし、出題者が受験生に対してハイデガーの全貌を理解すべきと考えているとは思えません。ですから、シンプルに「人は『死へかかわる存在』として、誰も代わることができない死を意識しながら、自分の生を精一杯生きるべき」と考えた、ととらえた方がいいと思います。
 ヤスパースとハイデガーはナチスを経験していますが、その経験の仕方は対照的です。ヤスパースは妻がユダヤ人であったために妻との離婚を勧告され、それを断ったために大学教授を辞めさせられます。やがて妻は強制収容所に送られることが決まり、ヤスパースは二人で死ぬことを決意しますが、妻が移送される直前、連合軍によってナチスは追いやられました。一方ハイデガーの方は、ナチスに入党、ナチスを賛美する講演を行い、大学の総長にのぼりつめています。というと、ハイデガーの方に嫌悪感を感じるかもしれませんし、事実そういう扱われ方もしますが、ハイデガーが述べた「世人」に陥らず本来的な自己を生きるために「死」との関係で考えたこと、思想の内容は、彼の生涯とは別として、参考にできると思います。
 サルトルに移りましょう。サルトルのキーワードは、「実存は本質に先立つ」や「人間とは自らつくるものにほかならない」、「自由の刑」、「投企」や「アンガージュマン」などです。
 おおざっぱに触れます。目の前にある鉛筆やスマホは「何のためにあるのか」という本質がありますが、それぞれの人間には「何のためにあるのか」が定められていません。ずっと神によって定められてきたのに神はいない。いつでも自分自身で決めることができます。自由です。これをサルトルは人間の「実存は本質に先立つ」、「人間とは自らつくるものにほかならない」と表現します。自由に自分のあり方を決めていいことは、うれしいような気もする一方で、自分で選んだ訳でなくこの世に投げ出されてきたのに、選んだ自由の責任はすべて自分が負っている、「自由の刑」に処せられている、とも言います。

 こうしてわれわれは、われわれの背後にもまた前方にも、明白な価値の領域に、正当化のための理由も逃げ口上ももってはいないである。われわれは逃げ口上もなく孤独である。そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。刑に処せられているというのは、人間は自分自身をつくったのではないからであり、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界の中に投げだされたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。

 自由に選択した何かは、自分だけでなく、人類全体に自分が選んだものとして責任を負っているとも言うのです。例えば結婚という選択をすれば、人類に対する誓約、「私はこうしたし、こうすべきだと考えた!」と宣言したこと(「アンガージュマン engagement」)になるのです。
 もし私が結婚し、子供をつくることを望んだとしたら、たとえこの結婚がもっぱら私の境遇なり情熱なり欲望なりに基づくものであったとしても、私はそれによって、私自身だけでなく、人類全体を一夫一婦制の方向にアンガジェするのである。こうして私は、私自身に対し、そして万人に対して責任を負い、私の選ぶある人間像をつくりあげる。私を選ぶことによって私は人間を選ぶのである。
 サルトルの自由は背負うものが大きいのがわかります。学校で「自由には責任をともなう」ような話が出ることもあるでしょうが、サルトルの影響を受けています。一方で「あなたがそれを選んだ、選んだ責任をとりなさい」という自己責任論とも結びつきやすいことも指摘しておきます。
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