ベーコンのイギリス経験論、デカルトの大陸合理論の継承者たちを学びます。
 イギリス経験論ではロック(あの社会契約説のロックです)、バークリ、ヒュームの3人。大陸合理論ではスピノザ、ライプニッツの2人。いずれもキーワード自体は単純で面白いことも言っていますが、内容は完全にはわかりにくいところもあります。問題を解いて学んだ方が早いです。
 イギリス経験論と大陸合理論の違いを大まかに整えます。「本当のこと」を知るために、誰もに共通する観念、生得観念があると考えるか、ないと考えるかの違いです。もう少しかみ砕くと、知識の元は、感覚的経験と考えるか、それとも理性と考えるかの違いです。イギリス経験論はロックがわかりやすいでしょう。人間の心は「白紙(タブラ・ラサ」)のようなもので、経験したことが書き込まれていくのであって、生得観念はない。バークリにいたっては「存在するとは、知覚されること」と言います。私たちはある事物が存在するから知覚できると考えていますが、バークリにとっては世界は私たちの意識の中だけにあるのです。例えば目の前にある鉛筆は、私たちがあると認識するから存在するのであって、認識されなければ存在しない。経験論はここまで徹底されます。一方、大陸合理論の方は、例えば平行線は交わらないとか、1+1=2は経験によって知ったのではなく、人間の理性は先天的にわかる、と考えます。経験は曖昧です。知覚や五感は見間違い、聞き間違いなど誤ることがあるでしょうし、ちょっとした経験で凝り固まってしまって、客観的とは言えない認識にいたる場合があります。
 「本当のこと」を知るためのしくみがどうなっているのか。これもプラトンの想起、エロース以来のテーマですが、認識論と言います。経験論と合理論のバトルは、別の単元で見るカントが調停します。
 一つだけ。ヒュームのキーワードは「知覚の束」。経験を重視するヒュームは、凝り固まって完成した我、観念のようなものはできるだけ想定しない。それより実感や印象の方を大事にします。私たち人間はともすれば「人間らしく」とか、正義とか固定したものをつくりますが、ヒュームにとってはそれらは今の瞬間に私の感覚や知覚が集まった信念や習慣の束に過ぎません。「どうして私っていつもこうやってダメなんだろう」と悩むことはヒュームにとっては不要です。過去からの経験が今に影響はしていても、あの時そうだったとしても、今までそうだったとしても、今やこれからもそうとは限らない。何かちょっと気分が軽くなる気がします。
倫CS23表
倫CS23裏
倫CS23②裏
倫CS23③裏