今回は功利主義を見ます。
 ヘーゲルと同じ頃、個人の幸福と社会全体の幸福の関係を考えたのが功利主義です。A・スミス、ベンサム、ミルの3人が中心です。それぞれのキーワードは、スミスが「見えざる手」や「共感」。ベンサムは「最大多数の最大幸福」、「快楽計算」、「制裁」とりわけ「法律的制裁」。ミルは「質的功利主義」、「満足な豚であるよりは不満足な人間の方がよい」、「内的制裁」、「他者危害(排除)の原則」あたりとなります。
 A・スミスは、個々人が自分の利益を追求すれば「見えざる手」によって、社会の利益と調和するという考え方を持っていました。実際の歴史では格差や植民地支配など弊害が19世紀に顕在化し、現在でも批判されます。ただ、その時期の重商主義というか、国王らと結びついた特権商人のみが経済活動できるというしくみを批判したことは確かですし、需要と供給というかスミス流の市場経済は世界に広がっています。
 ここではベンサムとミルの違いが最も大事ですが、A・スミスの「共感」、ベンサムの「制裁」、ミルの「内的制裁」など、彼らが自分の主張に条件をつけていたことも注目です。

 ミルは、ベンサムのいう快楽に、質の違いを加えます。単に多数の快楽をもたらすのが善なのではなく、質の高い快楽と質の低い快楽があると言います。確かにローマ帝国ではキリスト教徒がライオンに食われるのをたくさんの人々が快楽を持って観戦していましたから、快楽にも質の高い快楽と質の低い快楽があるという考え方は理解できます。その上でミルは、
満足な豚であるよりは不満足な人間の方がよく、満足した愚か者であるよりは不満足なソクラテスの方がよい
と獣ではなくて人間だけが経験できる快楽、精神的快楽を上位におきます。イエスの黄金律(the golden rule)「人にしてもらいたいことを人にしなさい」のように、他者の幸福を願うような精神的な快楽を求めました。
 少し俯瞰します。現代社会にもさまざまな快楽があります。ベンサムにとっては快楽が量的に増えることが社会的に求められてよいということになりますが、「世の中にある快楽は(他人に迷惑をかける快楽を除外したとしても)求められていいのか」という問いにミルは条件を付けました。ただ、ミルの言う快楽の質的な違い、質の高い楽と質の低い快楽を区別する基準は何か、仮に区別できたとしても、その質の高いと位置づけられた快楽を行うことは、もはや快楽ではなくて義務に近づいていないかという問題が生じてきます。ミル自身は、その基準は「両方を経験した人のすべてあるいはほとんどすべてが‥選び取るものが、望ましい快楽である」と言っていますが、どうでしょうか。具体的に試します。クラシック音楽を聴くことは、ミスチルさんや髭ダンさんを聴くことより質が高いでしょうか。両方経験したほとんどの人の選択が一致するでしょうか。そもそも音楽を聴くことは読書することや執筆することに比べて質が低いでしょうか。ミルの質的功利主義は「どうしたらいいのか」を求めようとすると、グレーゾーンが広く存在するのです。
 別の話に戻します。多数派は少数者へ向けて社会的な専制を行う危険性があることもミルは述べています。これも現代でも見られます。
 また、父親のように「お前にとってこうした方が幸福だからこうしなさい」というような父権主義、これをパターナリズムといいますが、パターナリズム批判もします。簡単に言えば「誰にも迷惑かけていないことなら、いいじゃん」という意味。たとえあることが本人にとって損するかもしれないことでも、他人の利益に影響を与えない場合には干渉されない、ということです。これを「他者危害の原則」といい、ミルは自由や自己決定を重視して、お節介や温情主義(パターナリズム)を嫌います。
 誰にも迷惑をかけていないのになぜ規制されなくてはならないのか、「他者危害の原則」は、尊厳死や輸血拒否、生殖補助医療などの生命倫理や、身なり(ヒゲやタトゥー)など現代の問題を考えるときに、一つの基準となります。極端な例かもしれませんが「誰にも迷惑をかけていないんだから、私の卵子と優秀でイケメンの人の精子をネットで購入して受精させ、赤ちゃんを産んでどうして悪いの?」どう反論しますか。
 ミルについての説明が長くなってしまいましたが、こうしてみても、19世紀にミルが述べたことは、多数者の専制、あちこちに見られるパターナリズムの問題など、現代にも通用する話をしていることがわかります。
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