今回は、西田幾多郎と和辻哲郎について見ていきます。

 中江兆民は1901年に「わが日本古より今に至るまで哲学なし」(『一年半有』)と表現していましたが、既成のものの紹介や焼き直しではなく、独自の哲学が誕生したと言われるのが、1911年に出版された西田幾多郎の『善の研究』によってです。また西田の影響を受けた和辻哲郎が1930年代に『人間の学としての倫理学』、『風土』、『倫理学』を、さらに西田の友人である鈴木大拙が『日本的霊性』を1944年に発表します。
 ただ、これら、特に西田や鈴木は難解で簡単に理解することはできません。共テの出題者も西田哲学の微妙なニュアンスまでは問いません。それは研究者が一生をかけるような大ごとだからです。下にある(4)の問題が最難関と言えるでしょう。内容は難しいのですが、西田が言っていることは皆さんも「あっ、それってある」「わかる~」と経験があるかもしれません。受験生の側はひきつづき〈人-キーワード-内容〉の結びつきを理解するつもりで臨んで下さい。

 西田のキーワードは「純粋経験」、「知情意」、「善」、「場所」、「絶対無」です。
 「純粋経験」とは、まるで音楽に心を奪われて音楽と一体のようになり、「私が音楽を聴いている」とは思ってはいない状態のことです。私(主観)と音楽(客観)が一体となった意識、主客未分化の状態が純粋な経験で、真の実在、こちらの方が根源だと考えました。心奪われる音楽を聴いた後で、「ああ私はすごい音楽を聴いたなあ」と考えるのは後、純粋な経験ではないとします。デカルトやカントのように主観が客観を分けて、主観(われ)が認識するという考え方と違っています。続けて、そんな小さな我、自己ではなくて主観と客観の対立を超えるような大きな働きを実現することが善、人格の実現だと言うのです。「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」。抽象的になりました。これもざっくりいえば、純粋経験とは、私たち教員は皆さんがテストを受けている時や、部活で入り込んでいる時に目にします。確かにそういうときの皆さんは、美しい(諦めた科目のテストや自己顕示欲が前面に出たプレーは感じない)。そんな状態こそが根本で、こういう経験が人類の発展をもたらす「善」なのです。
 「場所」、「絶対無」は晩年のキーワードです。
 例えば、現在とは、文字通り過去や未来ではありません。が矛盾していますが、現在とは過去と未来によって成り立っています。過去が現在を規定するとともに、未来もまた現在を規定する。矛盾する過去と未来が現在という「場所」において、一つとなります。こんなふうに、対立するものがそこにあり、包みこむ「場所」がある、というのです。今、現在、過去、未来で例えましたが、他にも主観と客観や自己と汝、善悪、美醜、真偽などあらゆるものの区別や有無がない絶対的な無が、「絶対無」です。
 また精緻ではありませんが、ざっくり言います。知情意を磨こうとしている私たちも「でも、何もできていない」「結局自分なんて何もない」と空しくなることがあります。その迷いがなければ、すべてを包みこむ「絶対無の場所」と出会うことはできません。自己と汝、善悪、美醜などなど対立、矛盾するものが相互に作用することによって何かが創造され、生み出されていきます。その土台が「絶対無の場所」です。
 下の(4)の空欄に、答えを見てからでいいので用語を入れてみましょう。するとスッキリまとめられています。

 続いて和辻を見ましょう。キーワードは「間柄的存在」、「風土」、「モンスーン型・砂漠(沙漠)型・牧場型」です。ヨーロッパの近代思想では、個人や自我は独立して存在するととらえ、その上で人間や社会を考えてきましたが、和辻はそうではない、とします。子は親の前で、生徒は教員の前で、ある部員は先輩の前、後輩の前で「らしく」振る舞うように、あらゆる場面で人と人とのあいだ、間柄を前提として行為する「間柄的存在」だというのです。とすれば、例えば自然環境とは、自然科学で把握されるようなものではなくて、人間の精神構造に刻み込まれた自己了解のしかた、自然環境というよりは「風土」なのです。寒気が外にあって迫ってくるのではなくて、われわれが寒さを感じ、寒気を見出す。さらに同じ寒さを周囲と共に感じて、日常の挨拶や生活にいかされ、間柄としての我々を見いだすというのです。その「風土」によって「モンスーン型・砂漠(沙漠)型・牧場型」のような3つのタイプがあるとしました。
 少しズレます。私たちが「間柄的存在」であるとすると、親や教員や先輩、後輩の前で役割というかそれ「らしく」振る舞う自分とは、役割に過ぎない、役割の総体ということになり、これまた何となく空しい感じがします。実際に和辻は1943年に「日本の臣道」という講演で滅私奉公を説いています。個人とは間柄にすぎないとすれば、求められている役割に徹する他ないでしょう。一方で別のことも言っています。個人は間柄の中におかれながら、その中に埋没することを拒み、間柄を否定し、自己を自覚する。その時、かえって自己を没して(否定の否定)、自己のおかれた間柄の全体をよく創造しようとする、というのです。和辻はヘーゲルを学んでいますので、弁証法が入っていることがわかります。個人も社会も運動、変化し、発展していきます。
 またざっくり言い換えます。「社会や世間に埋没なんかしたくない」と否定して、自分が見出したことへ打ち込むことが、社会や間柄の創造につながる、です。ミュージシャンの歌詞の中で「世の中、おかしい」と表現されるものはたくさんあり、確かにその通りなのでしょうが、ではどうすべきなのか、解決策の糸口は何か、が表現されたものは多くありません。もしそれらを示すことができれば、間柄や社会を創造している、個人が確立すると同時に個人が棄却されると考えるんです。そう考えると間柄や社会に埋没することの否定、拒否は第一歩、否定しない人より前に進んでいるのかもしれません。
 考えてみれば、近松が「義理と人情」を描き、鴎外が「かのように」振る舞うことを提示していました。和辻は否定の否定=二重否定によって、間に生きる人に積極的な意味を見出そうとしています(しかし、日本という風土においては滅私奉公へつながってしまいました)。いずれも役割や求められていることに生きることは苦しいこと、何とかしなければという思考の跡があります。皆さんはこれから役割からフリーな世界へいったん旅立とうとしています。と同時に、新しい間柄へ入ろうともしています。人は間柄の中でしか自分を持つことができないのか、考え続けてほしいと思います。
 (5)の問題で、その二重否定の弁証法を確認してみましょう。
page009
page010