今回は構造主義をみます。ソシュールやレヴィ・ストロース、フーコーやデリダなどです。このあたりはだいぶ現代に近づいていますので、現代文の評論文にも構造主義の考え方がいくつか載っています。そっちも理解できる、一石二鳥の単元です。
 大ざっぱに彼らの考え方を理解しましょう。ソシュールの結論は「言葉によって世界は成り立っている」、「言語や文化は差異の体系である」ということです。わかりづらいですね。ソシュール以前は、言語とは、ものが先にあって、それに名札をつけたようなものだと思われていましたが、ソシュールは言語として名付けられることによってあるものが存在するようになる、と考えました。日本語でワニは、英語ではクロコダイルとアリゲーターです。英語ではクロコダイルとアリゲーターは全く別のものですが、私たちの日本語はたいして変わらないものとして位置づけています。他の例をあげます。日本語で「ストレス」という言葉が定着していなかった頃、人々はストレスを感じてはいませんでした。疲れやだるさはありましたが、ストレスは疲れやだるさとはちょっと違うでしょう。ストレスという言葉ができることによって、私たちの身心はストレスを感じるようになるのです。言葉が先で、ものや事実は後。確かに私たちは言葉によって考えていますし、言葉になっていないものは見えないというか、気付かない。名付けるということは他と区別するため、差異のためですが、その差異は文化によって違う、構造があるので構造主義といいます。
 レヴィ・ストロースも西洋の理性を批判します。南米の諸部族の調査から、彼らにも西洋の理性同様、一定の論理性や記号体系があることを見出します。この記号体系はソシュールが言語のうちに見出した構造に通じます。構造主義です。遅れた未開に思われていた諸部族にも構造が見られるのであるから、西洋の理性だけが進んでいて正しいとは言えない。あらゆる文化の間には優劣はない、という文化相対主義にもつながっていきます。
 フーコーもまた理性が狂気や異常を創りだすことを指摘します。狂気や異常とは、学問や歴史認識などの理性が産んだもので、あらかじめ存在するわけではない、と言います。有名なのは囚人を監視するパノプティコンです。功利主義のベンサムが発明した監獄、パノプティコンは教科書や資料集に図が出ていますが、最小限の監視者で囚人を監視する効率的なしくみです。まさに「最大多数の最大幸福」が体現されています。フーコーは、このパノプティコンは監視者は実際にはその時に囚人を見ていなくても、囚人の側からすれば常に見られているように感じ、いつの間にか自ら従順な主体をつくりあげていくことを指摘します。このように近代の理性は、人間を社会に主体的に服従させるしくみがあちこちにあって、服従しないものを異常や狂気として排除します。これらのしくみをフーコーは「権力」とか「生の権力」と呼びますが、この権力とは国家権力のようなものばかりでなく、私たちの主体と切り離せないのです。
 一番身近なのは学校です。一度、教卓に立ってみて下さい。授業中なら教室の一番後ろの席の生徒が内職していることもハッキリわかります。これによって怒られることも権力の力でしょうが、それだけでなく「怒られるから従おう」、「あいつバカだな、バレてるって言ってんのに」とか、さらに「別に怒られるからやってるんじゃなくて、自分の進路を実現したいからやっている」という主体性の中に「権力」が入り込んでいるというのです。あなたの中の「権力」は見えますか。
 当たり前のように使う言葉や習慣、歴史観や学問が当然のことではなく、相対的、人が囚われていると考える、ソシュールの言葉、レヴィ・ストロースの文化や習慣、フーコーの歴史や学問への認識は、私たちの土台を突き崩し、クラクラさせます。自分なんてない、と思ってしまうかもしれません。けれどそういう考え方があることを知っておくことは視点を広げますし、知らなかった時より幸福になるかはわかりませんが、ステージが上がっていることは確かです。
 ヴィトゲンシュタインはちょっと取っつきづらい、初期の写像理論と後期の言語ゲームを分けて、その上で過去問で慣れていこう。下にも問題がありますが、次回、第37回でも、もう少し触れます。
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