今回は平安時代の思想を見ます。中心は最澄と空海です。比叡山・延暦寺・天台宗・最澄をそれぞれの頭文字をとって略して「ひえー、てんさい!」、高野山・金剛峯寺・真言宗・空海を略して「ここ、しんくう?」と覚えます。
 最澄と空海の平安仏教は、鎮護国家を否定はしていませんが、そこから抜け出す新たな方向を出したことに特徴があります。ただ、ちょっと難しい、深入りしています。
 最澄から見ます。最澄のキーワードは「一乗思想」と「本覚思想」の2つです。最澄は「法華経」を根本経典としていますが、一乗思想とは「釈迦の教えは、根本的には一つの乗り物、法華経の教えに帰する」という考え方です。従来の奈良仏教、南都六宗の徳一という僧と論争した時に、徳一はその人が成仏できるかは先天的に決まっているとしたのに対して、最澄はあらゆる衆生は、法華経によって等しく成仏する可能性がある(自動的に、ではない)としました。つまり悟りを得る素質や能力に差を設けるかが異なるのです。
 本覚思想とは、あらゆる衆生は悟りへの本性が内在している(自動的に、ではない)という考え方で、その後「山川草木悉有仏性(さんせんそうもく しつ うぶっしょう)」とか「一切衆生悉有仏性」、人間だけでなく、草木も悉く(ことごとく)仏性が有ると表現されていきます。
 最澄はもう一つ、延暦寺に戒壇を設けました。戒壇とは簡単に言えば僧としてのライセンスを与える免許センターです。それまでは鑑真の指導のもとにできた東大寺だけが戒壇でしたが、もう一つの戒壇をつくったのです。この比叡山で法然や親鸞、栄西や道元、日蓮らが学んでいます。

 続いては空海です。空海のキーワードは「密教」、「即身成仏」、「三密の行」あたりです。密教は言葉による説明ではなく、神秘的なマル秘の方法で悟りを得ようとします。その方法が三密(2020年頃同じ言葉が流行しましたが全然関係ありません)、三は身・口・意の3つです。これも単純化して説明しますが、身は指の形で仏法を表すこと、口は呪力のある秘密の言葉を唱えること、意は心で大日如来や曼荼羅を思い描くことです。これらの方法を採れば、生きているこの身のまま成仏できる、「即身成仏」できるとするのです。秘密の方法こそ含まれていますが「この身のまま」あたりに現世利益が見られ、のちに仏教が民衆へ近づく萌芽が出てきます。
 先ほど、大日如来(だいにちにょらい)という言葉が出てきましたが、密教の本尊は大日如来です。ゴーダマ・シッダルタら悟りを開いた者が伝えた真理そのものを身体としています。イエスが神から使わされた神であるのに似ている、と言えばいいでしょうか、ゴーダマらも包括する宇宙の根本原理が大日如来です。その世界観が表現されたものが曼荼羅です。
 最澄、空海の出題もスラスラは解けないでしょう。微妙なニュアンスがありますので、問題を解いて間違えながら像をハッキリさせていくことが必要になります。

 平安時代は最澄と空海以外にもう一つ、浄土信仰が盛んになっています。自分が悟りを開くことよりも人々を救うことを選んだ阿弥陀仏を信仰し、極楽浄土で往生しようとする信仰です。平等院鳳凰堂のような極楽浄土を望み、その望みが破れれば地獄絵図に描かれたような世界をさまよう。
 人物としては「厭離穢土、欣求浄土」と述べた源信、踊り念仏をはじめたとされる空也(市聖)の2人。そして浄土信仰が広がったのは、末法に入ったと考えられたことが背景にありますが、正法(教+行+証)、像法(教+行)、末法(教)の区別が必要です。

No42表
No42裏