今回は江戸時代の儒教を中心に学びます。
 江戸時代はちょっと踏ん張りどころです。人の数が多くて区別しづらく、また国内のことなので割と細かいことが問われます。日本史受験者は一石二鳥でしょうが、それ以外の人は人名だけでも苦戦します。ただこれもいつもと同じ、自分が苦しい単元は、多くの人が苦しい。逆にそこを何とかするとアドバンテージになります。

 儒教はもともと聖徳太子が憲法十七条で、「和をもって貴しとなし、さからうことなきを宗とせよ」とか「詔を承りては必ずつつしめ」と定めていたように、大陸の進んだ文化として受け入れられてきました。歴史上、江戸時代になるまで前面に出ることはありませんでしたが、仏教の僧たちが教養として学んでいたので脈々と息づいていました。江戸時代に出てくる儒学者たちは僧出身者が多いのです。
  ここでも〈人名・キーワード・内容〉を結びつけることが早道です。林羅山なら「上下定分の理」、「居敬窮理」、「存心持敬」あたり、山崎闇斎なら「垂加神道」、新井白石なら幕府の顧問になったことや著書『西洋紀聞』、雨森芳洲なら対馬藩で朝鮮との外交や「誠心の交わり」あたりになるでしょう。ちなみに山崎闇斎は仏教を批判して、ゴーダマ・シッダルタは妻子を捨て、一人で悟りを開くなど身勝手でその者から始まった仏教は邪教だとして、朱子学と神道を結びつけています。これがのちに幕末の志士たちへも影響を与えます。
 朱子学が幕府の官学、つまり公式の学問となり、1790年の寛政異学の禁では、朱子学以外の講義は禁止されました。朱子学はざっくり言えば幕府が求める秩序を維持するのに都合がいい考え方だったのです。しかし中国における朱子学がそうであったように、ビックな官学というテーゼへの疑問、批判から新しい考え方、アンチテーゼが生まれていきます(陽明学や古学派、国学など)。また安定した秩序の下で江戸時代の人々の往来や娯楽が生まれていきますので、朱子学を単純に悪玉扱いするのもまた難しいでしょう。ただ、現在でも「若造は黙ってろ」的な「それが自然の秩序」と不合理な慣習を求めるおじさん達がいて、朱子学的な考え方を背景にしていますので、批判的に学んだ方が理解しやすいかもしれません。

No44表
No44裏


No44裏②