今回は明治中期の近代的な自我の模索について触れていきます。この頃の思想は主として文学の中にあらわれていますが、中心は夏目漱石と森鴎外の2人です。
 2人は明治維新前後に生まれ、青年期に近代化、西欧化が進む日本を見ています。いずれも政府の留学生として海外生活も経験し、日本を相対的に、しかし自分の中にある捨てられない日本と向き合っている共通点があります。現代文で鴎外の『舞姫』をあつかう高校があるでしょう。ドイツで出会った愛するエリス、しかし日本の家が推す許嫁(いいなづけ)、個人の感情と役割の間で揺れ動く主人公が描かれていますが、鴎外の実体験です。
 このように近代化が進む日本において、自己と社会というか、社会における自己のあり方を模索したのが、この頃の文学です。天下国家よりも自己の内面の確立を求めます。北村透谷や与謝野晶子、島崎藤村や石川啄木、武者小路実篤らも同じような問いに向き合い、ロマン主義や自然主義、白樺派などと分類されます。今、作品を読むのは難しいでしょうから、受験終わって、自己の生かし方で迷う時には、参考になるものもあるでしょう。
 漱石のキーワードは、「内発的開化と外発的開化」や「自己本位」、「個人主義」、「則天去私」になります。1908年に出版された『三四郎』、1908年といえば日露戦争に勝ち、不平等条約も改正され一等国の仲間入りを果たしたとみなされる中で、主人公の学生がこれから日本について「だんだん発展するでしょう」と言うと、先生は「亡びるね」と答えています。国家が対外的に独立を果たしても、個人の内面の苦痛や不安は解決していないことを指摘しました。ではどうすればいいのか、がキーワードで示されます。晩年に見出した境地、「則天去私」は、自然の道理(天)にしたがって、私を去るという心境ですが、その意味は明確ではありません。とりわけ「天にしたがう」とは何のことか、「私を去る」における自己とは何なのか、空っぽな存在なのかなどよくわかりません。それを描いた『明暗』の執筆中に漱石が亡くなってしまったためです。ただ、エゴイズムを超えた「個人主義」の克服がなかなか簡単にはいかないため、自己よりも大きな何かがあって、それに沿うことが求められています。問題文では明確でない点は問われません。しかし、漱石が何を見出したのかは気になります。

 鴎外のキーワードは、「かのように」、「諦念(レジグナシオン)」です。
 『舞姫』で、求められた役割や立場を捨てられない自分、しかしそこに埋没しない境地、「諦念」を見出します。社会主義やロマン主義、自然主義のように「社会がおかしい!」と主張することは、もちろん構わないのですが、自分は社会の中で育ち生きていますから、社会を批判しても私の正しさは証明されませんし、私自身への批判ともなるのです。あらゆる価値は正しいとは限らない概念の上に成立している以上、世の中に広がっている概念がまるで正しい「かのように」振る舞い、その中で自己を埋もれさせない「諦念」という考え方は、消極的、順応的かもしれませんが、現代にも参考になりそうです。
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