高校 政経・倫政の補習講座

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タグ:力への意志

 今回は、実存主義を見ます。
 実存主義はキルケゴール、ニーチェ、ヤスパース、ハイデガー、サルトルらが代表的な人物ですが、2回に分けて見ていきます。今回はキルケゴールとニーチェです。 
 実存の意味がわかりにくいでしょう。人間の客観的な把握や社会体制の変革ではなく、自分にとっての真実を求めたのが実存主義です。現実存在の略、‘現実’的に生きる私という‘存在’にとっての真理を求めようとしています。
 これまではヘーゲルに象徴されるように「人間とは〇〇である」とか「社会は〇〇である」と説明してきて、それはそれで社会制度を考えていく時には、一般的な人間を想定しなければ制度設計ができませんから役に立つのですが、それら人間や社会の「本質」は違和感があっても人を黙らせてしまう効果があったり、私にあてはまるとは限りません。実存主義者の一人、サルトルは「実存は本質に先立つ」という言葉で「〇〇である」という本質ばかり追い求めてきた哲学に反省を迫ります。例えば世界の人口が79億人いて、仮に今日2万人がフラれていたとして、私がフラれたツラさは「恋愛というものは、成就するとは限らない」と人間や社会について説明されても、私のツラさが2万分の1に軽減されたりはしません。むしろback numberさんの「ハッピーエンド」を聴いた方がよくわかります。実存主義はそうやって自分にとっての真理に答えようとするので、高校生にとっては惹かれたり、取っつきやすいようです。余談ですが、世の曲で何か琴線に触れるものは、おのずと実存主義にはいりこんでいる気がします。というか歌詞を書こうと思ったら「実存主義へGo!」という感じです。
 キルケゴールはこんなふうに言います。
私にとって真理であるような真理、私がそれのために生き、そして死にたいと思うような理念を発見することが必要なのだ。いわゆる客観的真理などを探し出してみたところで、それが私の何の役に立つのだろう。

 この単元も〈人・キーワード・内容〉を区別することが、引き続きカギになります。この単元は、最初から問題を解くのではなくて、ある程度それぞれの人物のアウトラインを理解してから問題を解いた方がわかりやすいです。
 キルケゴールのキーワードは、「主体的真理」や「絶望」、「実存の三段階」や「単独者」、「あれか、これか」になります。
 キルケゴールを大雑把にみます。彼は人類や社会、世界にとってではなく、私にとっての真理、「主体的真理」を見出そうとしました。現実の生活ではいたるところで選択する場面があります。その時、社会や世間の理性的な見解が「その選択でよいのか」と迫ってきます。一方で自分は人間一般には還元できない唯一無二の「例外者」であり、また感情や肉体を持っていますから、世間の理性とはズレが生じます。「その選択でよいのか」という不安や苦悩、さらには生きることへの「絶望」におちいる場合もあります。
 ではどうしたらいいか。キルケゴールは自分らしく生きるために、実存には段階、「実存の三段階」があることを示しました。出題を解く上では、美的実存、倫理的実存、宗教的実存はそれぞれ内容の違いを理解する必要があります。恐らく受験生にとって違和感があるのは、三段階の最終段階が宗教的実存であることでしょう。「結局、神にすがることかよ」という違和感です。神と言うと紛らわしいので、何かすべてを包みこんでいて絶対に正しいというようなものを仮に想定してみて下さい。その「絶対」と自分自身が「単独者」として対面すること、と考えるとスムーズです。「絶対」は「単独者」である自分に何と語りかけるだろうか。今の自分はこれでいいのだろうかと考えていくことが「宗教的実存」です。「単独者」として神と向き合うことなので、キルケゴールは周りと同調して教会に行くような信仰は嫌います。このような「単独者」として絶対と向き合うことなく、自分自身を見失った状態が、少し前に述べた「絶望」のことなのです。
 こうやって見てくると、「その選択でよいのか」、「例外者」や「単独者」という考え方は受験生にも身近なものだということがわかります。キルケゴールは不安や「絶望」を通してはじめて、真実の自己、実存に向かうことができるとも言います。何だか勇気づけられます。
人間を真に知った人は次のようにいわねばならないだろう。すこしも絶望していない人間、その内面に深く何らかの動揺とか不調和とか、ある知らないものとか、あるいはあえて知ろうとすらしないあるものとかに対する不安、といったものを宿していない人間はひとりもいないと。

 続けてニーチェです。
 ニーチェのキーワードは「ニヒリズム」、「ルサンチマン」や「奴隷道徳」、「神は死んだ」、「力への意志」、「超人」、「永劫回帰」、「運命愛」などです。
 再び大雑把にみましょう。ニーチェは、生きる意義や目的を失った虚無主義=「ニヒリズム」に陥っていると考えました。原因はキリスト教です。イエスやキリスト教の教えは、弱い者が強い者をうらやみ、優遇を求めてつくりあげた怨恨=「ルサンチマン」であり、「奴隷道徳」だというのです。それによって本来の気高く、創造性に満ちた人間の「力への意志」を失わせた、と考えます。
 私たちは日常、「人にしてもらいたいことを人にしなさい」という黄金律とまではいかなくても、困っている人の力になりたいとか、誰もが平等に扱われるべきだとか、何となく当たり前のように前提としている善さのようなものがありますが、そこをニーチェは揺るがします。
平等の説教者よ。わたしにとって、おまえたちは毒蜘蛛であり、復讐の思いを抱いて身をかくしている者たちだ。
善い者たち、正しい者たちを警戒せよ。かれらは、自分自身の徳を創り出す者を、好んで十字架にかける。彼らは孤独者を憎むのだ。

 どうすればいいのか。ニーチェは、既成の道徳や価値が失われたこと、「神は死んだ」という事実を認め、新しい価値を創造し生き生きと生きること=「超人」になることを主張します。その「超人」とは、目的がなくグルグルと円環のように繰り返される「永劫回帰」の世界にあっても、「これが人生か、さればもう一度」、よっしゃー来いや、と引き受けられるような存在です。言い換えます。小学校の頃を思い出せば「超人」はわかります。無邪気に世界を肯定し、無心に遊ぶ「子ども」こそ「超人」だとニーチェは位置づけています。ウルトラマンultraman(≒超人) ごっこをしていなくても、子どもは超人に近いのです。
わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきものである。あなたがたは,人間を乗り超えるために,何をしたか。
君は一つの新しい力であるか。新しい権利であるか。始原の運動であるか。自分の力で回る車輪であるか。君たちは星たちにも支配の力をおよぼして君の周囲を回らせることができるか。
 キルケゴールは神を尊重した上での実存主義でした。ニーチェは「神は死んだ」と神なき世界での実存主義でした。次の単元とあわせて、キルケゴールとヤスパースは有神論的実存主義、ニーチェやハイデカー、サルトルは無神論的実存主義に分類されます。キルケゴールやヤスパースが神を想定するところに違和感があっても、恐らく高校生には魅力的な人たちです。問題を通じて、恐らくお気に入りの実存主義者も見つかることでしょう。
 ただ、受験上は不要かもしれませんが、それぞれ弱点というか、課題もまた持っています。お気に入りがいてもいいし、勇気づけられる言葉もたくさんにあるのですが、独りよがりにならないように、実存主義者を相対的に見る視点も持っていた方がいいと思います。
倫CS30表
倫CS30裏

 今回は実存主義、キルケゴールとニーチェです。
 実存主義とは、客観的に人間や社会を把握しようとするのではなくて、「今、ここに生きる、私」がどう生きるべきか、個別的な真理を見出そうとする考え方のことです。それまではホモ・サピエンスという言葉にしても、ヘーゲルの国家にしても、社会学や経済学、社会主義にしても「人間とは○○である」とか「社会は○○である」と説明してきましたが、唯一無二の自分にとっては、それらの「本質」は違和感があったり、自分を救ってくれません。私にとっての真理にはなりにくいのです。実存主義はそれに答えようとするので、高校生にとっては惹かれたり、取っつきやすいようです。
 それぞれ独特のキーワードがあります。キルケゴールでいえば主体的真理、絶望、実存の三段階、単独者、「あれか、これか」。ニーチェの方はニヒリズム、ルサンチマン、奴隷道徳、神は死んだ、力への意志、超人、永劫回帰、運命愛などです。一つ一つの用語を理解するのは大変そうですが、いっていることは面白い、正確に、流れの中で理解していきましょう。
20キルケゴール、ニーチェ
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