今回は鎌倉仏教の栄西、道元、日蓮の考え方を学んでいきます。
 浄土教系に引き続き、それぞれの著書は必須です。
 栄西と道元は、末法思想や他力の信仰を批判し、座禅によって自力の救済を目指す禅宗を伝えました。ゴーダマ・シッダルタは菩提樹の下で静かに座り、瞑想しながら悟りを開いていきましたから、仏教において座禅は悟りを開くための一つの修行方法です。この方法はインドの僧、達磨が中国に伝え、座禅をしすぎた達磨は手足がなくなるほどだったと言われます。ダルマさんのモデルです。禅宗は、ゴーダマの悟った真理は言葉や文字ですべてを表すことはできず(不立文字 ふりゅうもんじ)、座禅をすることで得られるいうと考え方をします。私たちも運動したり作品を残す時に、頭や文字ではなく、身体で身につけることがあります。宋で学んでいた栄西が、座禅を重んじる臨済宗を日本に伝えました。道元もまた宋で学び、曹洞宗を日本に伝えます。
 両者の違いは何でしょうか。これも単純化すれば、臨済宗の座禅は考えながら座り、曹洞宗の座禅は考えずに座ります。難しい言葉では、臨済宗は公案という問題を考えながらの看話禅、曹洞宗はひたすら座る黙照禅といいます。
 臨済宗の座禅は目的に至る手段、曹洞宗の座禅は坐ること自体が目的、と言いかえてもいいでしょう。「一休さん」という昔話、漫画やアニメがありますが、実在の人物の一休は考えながら座り、何か出来事に対して名案を出していきます。一休は臨済宗です。
 一方、曹洞宗の道元のキーワードは「只管打坐」、「身心脱落」、「修証一等」、あたりになります。只管打坐とは、只だ(ただ)ひたすら坐ることに打ち込むこと、です。こうして身も心も尽くして坐り抜く時、すべての束縛から解放され、身心が自在の境地に達することが「身心脱落」で、俗っぽく言えば無我の境地です。坐るという修行=「修」と、悟りの境地=「証」は等しい、「修証一等」とつながっていきます。道元は『正法眼蔵』の中で「座禅を真理へ到達する手段だと思っているうちは迷いの中にある」とも述べています。あまり多くはないでしょうが、私たちも何かにひたすら打ち込んでいる時、ゾーン状態に入って、その時だけは悟り状態と言われればそうかもしれないという心境の経験があるかもしれません。

 日蓮に移ります。日蓮は『法華経』を唯一の経典とします。法華経にある「妙法蓮華経」という5文字の題目に帰依すること、「南無妙法蓮華経」に釈迦の功徳の全体が表現されているのだから、この題目を口に唱えること、唱題によって、誰でも仏になることができるとしました(「南無阿弥陀仏」という念仏ではありません!)。
 また個人の救済だけではなく、国の政治のあり方へも言及しています。日蓮の著作は『立正安国論』ですが、題名からも鎮護国家というか国を安んずる考え方がうかがえますし、この著作の中で「外国の賊どもが国内を侵掠する」と、元寇を予言するような記述が見られます。法華経に基づく仏国土を目指すために他宗派を激しく攻撃することも特徴です。キーワードの一つ、「四箇格言」といいますが、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊とまで表現しています。激しいですね。ただ、主な宗派の中で攻撃されていない宗派がありますね。それは天台宗です。なぜか。なぜなら天台宗や聖徳太子は法華経を重んじていましたから。
 多宗派に対する激しい攻撃や鎌倉幕府に対する要求は弾圧を呼び、日蓮は2度流罪にあっています。しかし、弾圧されること自体が法華経を広げている証であるとして、自らを「法華経の行者」と位置づけるようになります。激しい弾圧に遭っても信念を曲げず、一層信念を強固にしていく姿勢は、まっすぐとも言えるし、かたくなとも言えるでしょうが、稀であることは間違いありません。

No43②表
No43②裏