今回は江戸時代の古学派です。
 古学派とは山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠の3人が主ですが、この3人には師弟関係はありませんし、学ぼうとする方法は異なります。ただ、共通しているのは朱子学への批判として、儒教の元々の教えに戻ろうとしていることです。朱子学を始めた朱子は12世紀の人、一方孔子は紀元前6世紀、孟子は紀元前4世紀の人でだいぶ時代が異なっていました。3人は孔子や孟子から学ぼうとします。
 違いをざっくり言うと、山鹿素行は孔子らの精神に立ち戻ろうとし(古学)、伊藤仁斎は孔子らの原典に直接あたり(古義学)、荻生徂徠は古代中国の文法にまで戻ります(古文辞学)。例えていえば、ルソーの『社会契約論』を理解するのに、山鹿はルソーの精神を、伊藤は直接『社会契約論』を読み、荻生は当時のフランス語も理解しようとします。
 その上で、山鹿のキーワードは「士道」、「聖学」。伊藤なら「仁」、「愛(仁愛)」、「誠」、「忠信」、荻生は「先王の道」、「経世済民」、「安天下の道」あたりとなるでしょう。
 伊藤仁斎のキーワードに「仁」や「仁愛」が出てきました。朱子学にとっても「仁」は大切な言葉ですが、どうしても理に基づいて、というか正しい理を知っている者が行うことができることがらとして解釈されます。それに対して伊藤は、仁とは日常生活において自然にあらわれる思いやりのことを指します。「仁を一語によっていいつくそうとすれば、愛だ」、「愛から発するときは本物であるが、愛から発しないときはいつわりのものにしかすぎない」とも述べています。少し俯瞰してみると、「本当の愛とは何か」は考えるに値します。本人の望むことを実現することとは限らないことは、例えば8歳の子が「痛いから歯医者になんて絶対に行かない」と言ったとき、その通りにすることは愛とは思えません。では本当の愛はどういう条件を備えているのでしょうか。伊藤はそうやって理で考えることを戒め、「『本当の愛とは何か』は自然な思いやりのことだし、論語を読んで」と言われそうです。けれどでは「自然な思いやりとは何か」と考えてしまいます。愛とは何でしょうね。 
 荻生徂徠の「経世済民」は、現在の「経済」の原語です。孔子が求めた道とは、古代中国の先王、理想的な君主が定めた人為的なもの、目的は天下を安んずる「安天下の道」、そのためには「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」ことだとしました。この頃から社会は人為的に成り立っている、という視点が生まれてくるのです。弟子の太宰春台は『経済録』の中で「富国強兵」を論じています。こうしてこれまで道徳と政治は結びついていましたが、政治の本来の目的が何かが問われてくるようになったのです。


No46表
No46裏