今回は、明治期のキリスト教について見ます。
 不平等条約を改正するためには、キリスト教を禁止しておく訳にはいきませんので、1873年(明治6年)にキリシタン禁令が解かれました。また近代国家を建設するにあたって外国人のアドバイザーを盛んに招きましたので、技術だけではなく、西洋近代を支える背景としてキリスト教、とくにプロテスタントが受け入れられていきました。
 代表的には、新島襄、植村正久、新渡戸稲造、内村鑑三らがあげられます。4人を区別するのもキーワードと結びつけることが早道です。新島襄と植村正久は特別のキーワードを挙げるのは難しいですが、新島なら「幕末に脱藩して渡米」とか「学校(同志社)を設立」のような、植村なら「東京神学社を設立(今の都内のいくつかのキリスト教系私大の源流です)」、「不敬事件で内村鑑三を擁護」のような区別のための用語が付されます。
 新渡戸稲造のキーワードは「著作『武士道』」、「太平洋の架け橋」です。新渡戸は5000円札に画かれているあの人、国際結婚第1号とも言われます。英文の著作『武士道』で、日本の武士道が欧米の騎士道に通じる、底流にある道徳観では引けをとらないことを著し、欧米における日本人に対する見方に影響を与えました。日本の紹介が動機とはいえ、今読んでも、明治期おいて、欧米に対する教養が豊富で、ソクラテスや孟子、ニーチェにも言及していて驚かされます。さらに『武士道』は和訳され、国内でも日本らしさの復活を目論む人々へ影響を与えます。

 内村鑑三のキーワードは「二つのJ」、「武士道」、「無教会主義」、「不敬事件」、「非戦論」です。
 アメリカに留学した内村でしたが、そこで人種差別や拝金主義を経験し、一方である人物と出会うことでキリスト教の良さも知り、回心(conversion)、「キリスト教国の悪がこれほどひどい反面、その善はまた何とすばらしいことか!」と強い信仰を持つようになります。帰国して高等中学校の教壇に立ちますが、そこで教育勅語に対して最敬礼を拒み、井上哲次郎ら国家主義者からの要請で辞職させられる「不敬事件」がおきます。内村にとっては、西欧文明と国家の絶対化へは抵抗すべきもの、逆に守るべきものとしたのが「2つのJ」、Jesus(イエス)とJapan(日本)でした。この抵抗すべきものと守るべきものは、考え方によっては矛盾しますが、内村は「武士道」に基づいた高潔な道徳観を持った日本こそが、神の義にかなう国となりうる、という結びつけ方をします。急速な近代化で欧米の真似だけ、キリスト教国のひどい面に侵され、方向性を失わないように、2つの良いところが結合しうることを主張したと言えます。
 ここで注意が必要です。「武士道」というキーワードは新渡戸も内村も用いますから、「武士道」という言葉が出てきたからすぐにどちらかに結びつけてしまうと、早とちりします。それ以外に区別できる修飾が付いていますので、そちらで判断して下さい。
 武士がよりどころとした「武士道」ですから、多くの庶民が「武士道」を持っていたとは言えないでしょう。彼ら自身も述べていますが、「武士道」に影響を受けた、もしくは「武士道」をつくりあげた要素は、庶民の道徳観としても存在している、というのです。実際はどうだったのでしょうか、また現在はどうでしょうか。
 内村は日露戦争に対して「戦争は人を殺すことである。しこうして人を殺すことは大罪悪である。しこうして大罪悪を侵して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない」と「非戦論」を唱えます。実は日清戦争には反対していませんでした。「2つのJ」を持つ日本によって、清を覚醒させ、共に東洋を改革しようとさえ考えていたからです。しかし、後になって日清戦争の内実は「略奪戦」であって、「『正義』を唱えた予言者は、恥辱のうちにある」と後悔したのです。少し俯瞰します。正義や人類への貢献などの大義と結びつくとき、自衛のため以外でも、戦争を否定することは簡単ではないことを示します。内村ですら当初は日清戦争に賛成していたのですから。よい戦争はありえますか?

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