今回は、主に明治初期を見ます。
 明治維新後、いちはやくヨーロッパの近代思想の紹介につとめたのが、明治六年(1873年)にできた明六社という団体です。啓蒙思想、「蒙(くらがり)を啓(ひら)く」、つまり因習や迷信から脱することを目指します。社員の多くが政府の役人でしたので、政府や政策への影響力が大きかったのです。
 ここでもたくさんの人物が出てきます。福沢諭吉が代表例ですが彼については後述します。他に明六社の主な人物をあげると、J・S・ミルの『自由論』やスマイルズの『自助論』を訳した中村正直、「哲学」や「主観」「客観」、「帰納」「演繹」などの訳語をつくった西周、朱子学や国学の非科学性を批判して死刑制度にも反対した津田真道、社会進化論を唱えた加藤弘之、のちに欧化政策の行き過ぎへの危機感から『日本道徳論』で儒教を国民道徳にすべきことを説く西村茂樹などがいます。とまあ、まとめてしまうとこうなるのですが、ヨーロッパ文明を目の当たりにし、では日本の何をどうやって変えていくのか力点や方法が異なります。
 福沢諭吉のキーワードは「門閥制度は親の敵でござる」、「天賦人権論」、「実学」、「独立自尊」、「一身独立して一国独立す」、「脱亜論」あたりになるでしょうか。彼の場合は、略歴を振り返った方が理解しやすいので、少し長くなりますが、おおまかに振り返ります。
 下級藩士の子として生まれた福沢は、身分制度のみじめさを身をもって味わったことから「門閥制度は親の敵でござる」と考えていました。蘭学を学んでいましたが、開港された横浜で自分のオランダ語がさっぱり通じないので、独学で英語を学びます。やがて、まあ通訳として幕府の遣欧、遣米使節に参加し、欧米の社会をつぶさに観察し、『学問のすゝめ』をはじめとして、近代国家をつくるために提言していきます。
 欧米で文明社会を見て日本と比較したときの驚きが『西洋事情』や『福翁自伝』に記されています。例えば遣米使節で行ったアメリカで、ワシントンの子孫は何をしているか聞いたところ、「ワシントンの子孫には女がいるはずだ。今どうしているかは知らない」と淡泊な返事をもらい、家柄なんてものが重視されていないことに驚き、江戸では火事があると釘拾いがウヤウヤ現れて奪い合いになるのに、アメリカではゴミ捨て場に鉄がたくさん落ちていることなど、あげればキリがないのですが、江戸時代に生きた人が文明社会を見た驚きが表現されています。『福翁自伝』は現代語訳も出ているので、オスゝメです。
 『学問のすゝめ』の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」が有名です。人は生まれながらに平等な権利を持っているという考え、天賦(てんぷ)人権論です。つづけて、上下差別なく生まれてきたのにもかかわらず、社会を見渡すとその格差には雲泥の差がある、その原因は「学ぶと学ばざるによりてできる」と、機会均等は重視しましたが格差自体は否定していません。このあたりは受験生の皆さんは、努力によって結果を出そうとしていますから、鼓舞されるものがあるでしょう。個々人が「独立自尊」の精神を持ち、学問に励むこと、その学問とは「日用に近き実学」、つまり生活に役立つ実用的な「実学」のことで、儒教をはじめとした観念論や、できない理想を嫌います。
 その「独立自尊」は、個人にとどまらないのが特徴です。国民の一人一人に自主独立の精神が根付けば「一身独立して、一国独立す」と国の独立に結びつけます。この結びつきは必然とは言えませんが、福沢の場合は結びついています。さらにその独立心を持たない(とみなした)隣国、中国や朝鮮には「西洋がこれに接するの風に従って処分すべき」つまり、日本はアジアを脱け出して、列強としてアジアに接するという「脱亜論」になっていきます。日清戦争に勝った際には「大願成就」、「愉快」と表現しました。このあと、近代国家日本が終戦までどう歩んでいったかという歴史を振り返ってみると、逆立ちして脱亜論、一国独立、一身独立、の結びつきのどこに課題があるのか考える必要があるかもしれません。ただ、おおむね明治の日本は福沢の描いたような道を歩んでいますし、福沢は成功した実業家の「勝ち組」的な論理を含んでいるといえます。

 対照的なのが、中江兆民です。キーワードは「東洋のルソー」、「自由民権運動」、「恩賜的民権」、「回(恢)復的民権」、「日本に哲学なし」、「無神・無霊魂」あたりです。兆民は政府の留学生としてフランスで学びました。フランスの法制度を身につけるためでしたが、そこでルソーの考え方に出会います。ルソーの『社会契約論』を『民約訳解』として翻訳、仏学塾という学校をつくり、新聞も創刊するなど自由民権運動の理論的な支柱として「東洋のルソー」と呼ばれます。ルソーの人民主権を目指した活動ですから、政府からは目をつけられて保安条例で首都から追放もされています。
 1889年、大日本帝国憲法が制定されました。広く国民が制定に参加したとはいえない欽定憲法です。この明治憲法をどう考えるかに対して、少し酔っぱらった3人が国家や外交を論じあうという設定の『三酔人経綸問答』において兆民は、民権、権利にはフランスのように人々が勝ち取った「回復的民権」と、施政者から与えられた「恩賜的民権」の2種類があると分類しました。本来「自由は取るべきものなり、もらうべき品にあらず」なので、「回復的民権」が理想ですが、その上で「恩賜的民権」であっても養い、育てていくことができる、とした点が特徴的です。明治憲法の立憲民主制は十分ではないが進化していくだろう、と期待したのです。そういえば18歳選挙権や成人年齢は、18歳が運動した結果で獲得されたものとは言えないでしょうが、これからどう育っていくかはわかりません。
 兆民は54歳の時に、ガンで「余命1年半」と宣告されます。そこで『一年有半』、『続一年有半』という著作を執筆しますが、その中で「わが日本、いにしえより今にいたるまで哲学なし」とデカルトやカントのような深く考えられたオリジナルな思想がないこと、また「人はいったん死ねば、再び生まれ変わることはない」地獄を恐れることも、精神の不滅を期待することも不要、「無神・無霊魂」を述べています。このあたりは明治の日本を俯瞰するような視点が出てきていて、この後の世代がまた模索していきますが、福沢とは対照的に、兆民は明治の日本には不満を持って生涯を終えていきます。
 余談です。松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』(中公新書 2001年)には、福沢と兆民は互いに知っていて、兆民は福沢への「明治の俊傑」と尊敬の念を表現していますが、福沢は知っているはずの兆民、世間では公に比較されることもあった兆民のことを一度も表現していない、と指摘しています。そういえば、不思議なというか感じがします。なぜなのでしょう。
page013
page014