今回は鎌倉仏教です。
 鎌倉仏教はそれまでよりも実践しやすい方法で(易行)、その方法に専念するという特徴を持っています。法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮と主に6人登場しますが、それぞれの著作は必須です(一遍には著作はありませんが)。この単元は中学校でも学んでいますので、少し踏み込んだところから始めましょう。
 今回は6人のうちの3人、浄土宗、浄土真宗、時宗をみます。いずれも浄土信仰のところでも出てきた阿弥陀仏を信仰しますので、「南無(ナーム=帰依します)阿弥陀仏」という念仏を唱えます。末法の世では自力の修行によって悟りを得るのは困難なので、阿弥陀仏による「他力」を信じて浄土に生まれる他ないと考える点も同じです。では3人の違いはどこにあるのか。各地を遊行し、空也の伝承にならって踊念仏を広めた一遍はともかく、とりわけ法然と親鸞の違いはどこなのか。
 法然のキーワードは、「専修念仏」です。浄土で往生するために他の修行方法は捨て、専ら、ひらすら念仏を口で唱えること(口称念仏)を説いたのが特徴です。ちょっと寄り道しますが、源信は『往生要集』の中で、念仏には2種類あると述べていました。一つは心に強く阿弥陀仏や極楽浄土を思い描く観想念仏。もう一つが口で「南無阿弥陀仏」ととなえる口称念仏(称名念仏)です。「思いが大事か、口に出すことが大事か」は現代の恋愛や夫婦関係の場面でも話題になることがありますが、あなたはどちらを重視しますか?
 法然が重視したのは、自力で厳しい修行をする道(これを聖道門と言います)ではなく、凡夫の誰でもができる口称念仏だったのです。旧来の仏教界からは反発され、僧籍を剥奪され流刑になっています。
 
 親鸞に移りましょう。親鸞は法然を慕っていて「法然にダマされて、地獄に墜ちても後悔しません」と述べています。ソクラテスとプラトンの関係に似ているでしょうか。けれど現在も浄土宗と浄土真宗は別の教団ですし、一向一揆など異なった歴史を持っています。
 親鸞のキーワードは、「悪人正機説」と「自然法爾(じねんほうに)」あたりとなります。悪人とは犯罪者のことではなく、自分で善行を積むことができない人を指します。その悪人こそが他力にすがる信心が強く、まさに阿弥陀仏が救おうとした対象であるとするのです。弟子の唯円の『歎異抄』には「悪人が救われるなら、善人はなおさら救われるはずではないか」という悪人正機説への反論があったエピソードが出ています。親鸞によれば、自力に頼ることができる善人は阿弥陀仏の力にまかせる気持ちが欠けていて、阿弥陀仏の本願の対象ではない、というのです。
 自然法爾とは、人は自然に法則として、しかるべきように救われる、という考え方で、「阿弥陀仏にすがろうとする信心が芽生えることですら、阿弥陀仏の力」ととらえています。「それも○○の力」という捉え方はキリスト教やイスラーム、ヘーゲルにも似ているかもしれません。
 法然と親鸞の違いをもう一つ。念仏の回数というか頻度ですが、法然は専修念仏はただひたすら念仏ですから、数は多い方がいい。一方の親鸞は本気で阿弥陀仏にすがる気持ちが込もっているなら、念仏は一度でもいい、それも自然法爾ですから。また下らない余談ですが、例えば「愛している」と口にする数は、多い方がいいですか?

No43表
No43裏